測量技師たちの育成と北海道測量
明治政府は、明治元(一八六八)年府県及び各藩諸侯に対し作成規準を示し、管轄地の地図作成を命じています。明治二(一八六九)年には各府県に「府県境界木標」(管轄境界)の設置を命じています。明治九(一八七六)年には一里塚が廃止されました。明治二〇(一八八七)年頃までに方向と距離を記載した里程標が整備され、中央集権を目指す明治政府の基礎が形作られました。
明治初期の地質調査を主導した人材は、明治五(一八七二)年東京に開拓使仮学校が設置されると、明治七(一八七四)年にアメリカ人地質学者であるベンジャミン・スミス・ライマンが指導し北海道の地図を作る中で、六名の地質測量生徒と仮学校から、前田精明・嶋田純一・山際永吾・西山正吾の四名を加え,技術者たちを育てていきました。後に嶋田純一は三井山野や豊国炭坑(糸田町)で活躍しました。
工部省鉱山課
明治新政府の工部省は、明治三(一八七〇)~一八(一八八五)年まで存在した近代国家の社会基盤整備と殖産興業を推進した中央官庁です。初代の工部卿は伊藤博文です。工部省鉱山課は、明治一八(一八八五)年頃に『鉱山借区図』を完成させました。北海道を除いて全国を九区に分けて作成しました。第九舖の九州『鉱山借区図』は、伊能忠敬の実測図及び里程図を基に、現地調査を行い完成させられました。地図の作成に当たったのは工部省の三等技手嶋田純一です。明治政府は明治五(一八七二)年に鉱山心得を発布、鉱物はすべて政府の専有としました。翌年には日本坑法を制定し、民間の鉱業者は鉱区を借用し一五年間を期限として採掘を認めることにしました。これを借区といい、明治六(一八七三)年から、明治一六(一八八三)年までに許可された鉱山の借区について記載されています。鉱種は、例えば石炭はせというふうに非金属はひらがなで表し、銅はドというふうに金属はカタカナで表記されています。
九州の『鉱山借区図』は、旧伊田町図書館であった風治八幡宮に所蔵されていました。焼失する前の風治八幡宮社務所の大広間は当時の伊田町図書館でした。