大河ドラマでおなじみとなった渋沢栄一は、武蔵国榛沢郡(はんざわぐん)血洗村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に天保十一(一八四〇)年に生まれました。
名主の家から一橋家家臣として徳川慶喜に仕えた後、幕臣となりました。幕府の第二回パリ万博では御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)として活躍し、経済の理法、合本(がっぽん)(株式会社)組織の実際、金融(銀行)の仕組み等を調査研究しました。渋沢は維新の混乱期に慶喜のため駿河藩の「静岡商法会所」頭取として尽力します。このとき明治政府からの拝借金太政官札を、三井の大番頭三野村利左衛門より、二割減の条件で正金へ交換の協力と支援を取り付け、これが後の三井とのつながりになりました。
明治政府では民部省(みんぶんしょう)を経て大蔵大輔井上馨(かおる)の下で造幣・戸籍・出納などの政策立案を行い、初代紙幣頭、大蔵少輔事務取扱となりました。退官後は井上馨と共に実業界に転じ、第一国立銀行を設立しました。東京商法会議所(現東京商工会議所)や東京証券取引所など様々な経済団体の設立や経営に関わり、一橋大学や福祉事業、セメント製造業(太平洋セメント等)など、その活躍は多岐にわたります。
渋沢栄一と益田孝は田川郡炭田に約三〇〇万坪の借区願を提出、資本金一〇〇万円を準備しました。田川郡予備炭田解放と借区取得を目指す人々と、田川採炭会社発起株主総会を東京で開催し、資本金六五万円を後に一〇〇万円に増資しました。田川採炭会社の相談役となり、三井田川鉱業所に繋がっていきます。若松築港の役員にもなり、小倉鉄道には渋沢栄一が資本金三五〇万円の内一〇〇万円を斡旋しました。さらに、明治四四(一九一一)年、関門架橋株式会社設立を出願するなど、その先見性は「日本資本主義の父」と称するにふさわしい人物でしょう。