コラム 機械技術の鬼才 片山逸太(かたやまいつた)

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【関連地域】田川市 糸田町 川崎町

 片山逸太(かたやまいつた)は天保八(一八三七)年、肥後小国村北里で生まれました。文久三(一八六三)年、長崎製鉄所(現在の三菱重工業株式会社長崎造船所)において二四歳で働くことになりました。機械技術の面で鬼才といわれ、製鉄所の役職の上から三番目の勘定役助役になります。明治四(一八七一)年、製鉄所が工部省に移管されたのを期に辞職しました。

片山逸太  提供:畑中敬子


 片山逸太は、明治八(一八七五)年、田川郡糸田村で、筑豊で初めて蒸気機関を使った排水ポンプの実験を行いました。蒸気の気圧が上がらず、ポンプが作動しなかったため排水は成功しませんでしたが、巻き上げ機の動力に使うことには成功したようです。その後、明治二八(一八九五)年、豊州(ほうしゅう)炭坑(川崎村池尻)、小松炭坑(弓削田(ゆげた)村)を経営しています。特に弓削田村は明治二〇年代に蔵内次郎作(くらうちじろさく)・久良知(くらち)寅次郎・片山逸太など石炭鉱業史に名を列ねる人々が炭鉱開発に関わった地域です。しかし明治二八(一八九五)年、小松炭坑で大規模な水没事故をおこし、復旧後、久良知寅次郎に譲渡しました。また明治三一(一八九八)年豊州炭鉱の社長も退任しました。逸太は炭鉱経営から引退し、引退前に建てた料亭群芳閣(ぐんぽうかく)で大正六(一九一七)年、八〇歳で亡くなりました。彼はまさに炭鉱機械化の先駆者でした。

昭和初期の群芳閣  提供:畑中敬子


 片山逸太の蒸気ポンプによる機械排水は、貝島太助、帆足義方、麻生太吉らによって続けられましたが、失敗続きでした。明治十三(一八八〇)年十二月八日、ついに筑豊ではじめての杉山徳三郎のスペシャルポンプによる機械排水が目尾(しゃかのお)炭坑で成功しました。明治三〇年代になると、ウォシントンポンプが筑豊各炭坑(新入(しんにゅう)・赤池・忠隈(ただくま)・明治・豊国)で使用されるようになり、坑内排水問題はとりあえずの解決をみました。こうした坑内排水問題解決の先鞭を付けたのが片山逸太と云えるでしょう。

(白石益雄)