平尾台から田川市の関の山にはセメントや漆喰(しっくい)の原料である良質な石灰石が大量に埋蔵されています。この一連の石灰岩層の性質は同質とされ、約三億年前に赤道近くのサンゴ礁が堆積したプレートがこの地に移動し隆起したことで形成されたものです。特に香春岳の石灰岩は高温のマグマの貫入によって結晶質になっており、純白で不純物の少ない高品質な石灰石(寒水石・白色結晶質石灰石)として全国的に知られています。
日本における石灰石の利用の歴史は古く、建築材料である漆喰や三和土(たたき)、農地の土壌改良のための石灰が生産されてきました。なお、田川地域にも江戸末期における石灰製造の記録があり、昭和三〇年代まで多くの石灰工場が点在し、石灰石も石炭と同様に身近なものでした。田川地域に豊富に埋蔵される石灰石ですが、消費が増えたのは明治八(一八七五)年に東京の官営深川セメント製造所が設立され国内でセメント製造技術が確立されて以降のことです。
明治中期に本格的に開発が進められた田川地域の石炭産業に対し、セメント産業の幕開けは昭和に入ってからのことでした。昭和九(一九三四)年に産業セメント鉄道後藤寺工場(現麻生セメント田川工場)、翌年の昭和十(一九三五)年に浅野セメント香春工場(現太平洋セメント香春サービスステーション)が竣工したことにより始まります。この時期は昭和恐慌に対する経済対策として、昭和七(一九三二)年から昭和九(一九三四)年に高橋是清(たかはしこれきよ)蔵相による時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)が実施されていました。この事業はダムや港湾建設など公共事業を中心にしたものであり、日本版ニューディール政策とも呼ばれる施策です。この公共事業によりセメント需要が倍に増え全国の生産高も六〇〇万tまで伸びました。
大正時代に船尾山、昭和初期に香春岳が石灰石採掘のため開発されましたが、当時の採掘は開発費が抑えられる傾斜面採掘法が主流でした。この採掘方法は落石や転落の危険が伴うもので、戦中・戦後に普及したグローリーホール採掘法も発破や立坑の石詰まりなど保安面から考えると安全と言えるものではなく、石灰石鉱山は炭鉱以上に危険な職場とされていました。その当時の歴史を伝えるものとして香春神社の境内には作業中に落下した山王石(昭和十四(一九三九)年に落下、重量八六t)が鎮座しています。
戦後の日本経済は石炭と鉄鋼の増産を第一に傾斜生産(方式)などに代表される経済統制が実施されました。セメント業界も統制のあおりを受けて生産が低迷しましたが、燃料である石炭の統制が撤廃された昭和二四(一九四九)年から状況は好転し、昭和二五(一九五〇)年に朝鮮戦争が勃発するとセメントの需要は飛躍的に拡大しました。
この時期の田川地域の石灰石鉱山やセメント工場でも生産増加のためにグローリーホールや新型キルン(セメントを製造する回転窯)が竣工しています。特に、香春鉱山では昭和三一(一九五六)年に立坑式ベンチカット(階段)採掘法が日本で初めて採用され大型ダンプなどの重機の使用により、従来の採掘方法に比べ飛躍的に生産性を高めることに成功しました。今日、全国の多くの石灰石鉱山では香春鉱山をモデルとした採掘・運搬方式が採用されており、我が国における鉱業・重機の発展に大きく寄与しました。
昭和三七(一九六二)年の原油輸入自由化に伴うエネルギー政策の転換により筑豊の炭鉱は次々に閉山していきました。昭和三九(一九六四)年には筑豊炭田最大の事業所であった三井鉱山田川鉱業所が閉山しました。その後、炭鉱離職者対策として三井セメントが設立され、既存のセメント鉱山や工場でも大規模な能力増強がなされ離職者の受け皿に繋がりました。
オイルショック後、セメント業界の方針として、大型キルンを備えた大規模工場の集中生産方針が採用され、昭和五〇(一九七五)年に香春工場では国内最大級の生産能力を有する七号キルンが竣工しました。また、麻生セメントや三井セメントでも新設のキルンが竣工し、田川地域におけるセメントの生産能力は大幅に増強されました。なお、平成二(一九九〇)年の田川地域のクリンカ(セメント半製品)生産能力は約六〇〇万tで全国の生産量の約七%を占めていました。
現在、田川地域では平成期におけるセメント不況の影響を受け、鉱山では生産規模の縮小および二つのセメント工場が閉鎖されました。しかし、田川市の麻生セメントでは麻生太郎元総理大臣の社長時代に新設されたキルンが今でも稼働しています。漆喰生産の国内トップメーカーである田川産業では宇佐神宮などの国宝や渋谷ヒカリエでも使用されている製品が製造されています。今日も白ダイヤは黒ダイヤに代わって、田川の基幹産業として大きな役割を担っています。