明治期の新しい産業への需要は急加速し、電気鉄道の敷設機運も全国に広まりました。特に明治二三(一八九〇)年第三回内国勧業博覧会において、東京電燈会社がスプレイグ式電車を輸入して上野公園で実地運転をしたことを契機に、明治二五、二六年頃の足尾銅山で鉱石運搬と従業員通勤用に実用的電車が使用されました。明治二六(一八九三)年には京都電気鉄道が敷設特許を得て、明治二八(一八九五)年に日本で初めての電気鉄道事業を開業させました。
このような国内での動向を受け、明治二九(一八九六)年に英彦山神宮宮司高千穂宜麿(たかちほのぶまろ)男爵を代表とした「彦山電気鉄道株式会社」創立起業の願書を逓信(ていしん)省に提出しています。資本金百五十万円といいますから、現在に換算すると三百億円以上と推定され、壮大な計画であったことがわかります。
計画では明治二八(一八九五)年開業の豊州鉄道と接続する福岡県田川郡赤村油須原(ゆすばる)駅から津野村、彦山村を経由し、大分県小野村、日田豆田町、終点日田隈(ひだくま)町まで二九哩マイル、支線として彦山駅から桝田(ますだ)駅を経由して川崎町池井尻駅を経て田川市猪位金まで十一哩で、明治二九(一八九六)年創立の金辺(きべ)鉄道と接続するとしています。彦山川と今川に発電所があることから水力発電も計画していたことがわかります。このような壮大な計画が何故なされたのでしょうか。それはひとえに「太田小三郎」の存在があります。幕末英彦山では尊攘運動が高まり、佐幕派の小倉藩から離反し、長州藩と密約を交わしことから文久三(一八六三)年に十一名の奉行格坊が犠牲となる英彦山義僧事件が起こりました。この中に正応坊こと鷹羽浄典(たかばじょうてん)がいて、小倉獄舎で斬首されています。明治の新しい夜明けを前に英彦山山伏も維新の志士として活躍しました。その鷹羽浄典の弟に太田小三郎こと鷹羽匡一(きょういち)がいます。匡一は齢十三で日田咸宜園(かんぎえん)の広瀬青邨(せいそん)に学び、気概の才を発揮した人物で、明治期の英彦山再興に努めました。京都に居した後、伊勢山田に転居し、二七歳で古市(ふるいち)の備前屋太田家の養子となり、太田小三郎と改名しました。小三郎は古市の妓楼(遊郭)備前屋の経営を立て直し、明治十九(一八八六)年には財団法人・神苑会を結成して伊勢神苑を整備・拡充し、徴古館・農業館などを建設し、当時荒廃していた伊勢神宮の周辺整備、再興を行いました。また、小三郎は明治二三(一八九〇)年に参宮(さんぐう)鉄道を創立して現在のJR参宮線の基礎をつくり、明治二七(一八九四)年には山田銀行(昭和十四(一九三九)年三重銀行)を設立、明治二九(一八九六)年には宮川電気を創立して電燈・電車事業を開発しました。このような功績から小三郎をして「伊勢を作った人」と呼ばれています。
小三郎は明治二九(一八九六)年、英彦山に帰山し、招魂場(現、招魂社)の整備にも出資し、英彦山義僧事件『日子山義僧伝(ひこさんぎそうでん)』の頒布に尽力しました。また、養子として迎えた太田光凞(おおたみつひろ)は東京大学卒業後、鉄道省に入省。明治四〇(一九〇七)年、鉄道省を辞して京阪(けいはん)電気鉄道に入社し、建設中だった京阪本線の線路選定や用地買収等一切の事務を担当し、ついには大正十四(一九二五)年、京阪電気鉄道社長に就任しました。太田親子は「渋沢栄一」とも親交が厚く、二代にわたり、近畿圏の鉄道運営に大きく関わりました。
また光凞は昭和八(一九三三)年、京阪電鉄案内を皮切りに三〇〇〇点余りの案内図を作成した鳥瞰図(ちょうかんず)師で「大正広重」と呼ばれた吉田初三郎に「英彦山霊山図」を描かせ、父の故郷英彦山神社に奉納しています。
このような状況を考えると、この英彦山電気鉄道計画に太田小三郎がアドバイスをしていたものと思われ、明治時代小三郎が描いた復興英彦山のように、現代にBRT(バス・ラピッド・トランジット)として生まれ変わる「日田彦山線」とともに新しい英彦山が創り出されるのかもしれません。