筑豊炭田開発と海軍予備炭田 国力増強不可欠な石炭

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 筑豊とは旧筑前国の遠賀、鞍手、嘉麻、穂波の四郡に旧豊前国の田川郡からなる遠賀川の本支流々域の総称です。明治十八(一八八五)年、五郡の炭坑業者によって筑前国豊前国石炭坑業組合が結成、同十九年には筑豊五郡川艜(かわひらた)同業組合が設立されました。こうして筑前・豊前の頭文字から「筑豊」という地域名が生まれ、福岡県北東部から中部、遠賀川流域に分布する石炭生産地「筑豊炭田」が誕生しました。

筑豊炭田位置図


 遠賀川流域の石炭が一般に利用されるようになったのは江戸時代になってからのことで、漁労のかがり火や家庭用燃料として普及していきました。その需要が飛躍的に増大したのは、塩田に利用されるようになってからのことです。享保十(一七二五)年、石炭が筑前勝浦浜(福津市)で製塩に使用されています。

 このような石炭の商品価値に着目した福岡藩は、文政九(一八二六)年に芦屋、同十三年に若松に「会所」を設け、石炭をすべて会所に納入させて特権商人を介してのみ売買できる仕組みにしました。また、小倉藩でもこのころ赤池(現・福智町)に会所を設置して統制を行いました。この制度は明治三(一八七〇)年まで続きました。石炭が国力増強に不可欠となり、黒ダイヤとまでいわれるようになったのは、石炭に蒸気機関の運転という新しい用途を伝え、日本の近代産業革命を支えるエネルギー源としての道をつけた嘉永六(一八五三)年の黒船来航がきっかけでした。

船頭と陸蒸気

田川市石炭・歴史博物館所蔵 C Yamamoto Family


 新政府による明治二(一八六九)年の「鉱山開放」、明治五(一八七二)年、会所の廃止、翌六年の「日本坑法」などの法律によって石炭採掘の自由が認められると、炭坑開発のための坑区(借区)出願が激増しましたが、このころの炭坑は一坑あたりの従業員数も少なく、採掘方法も「狸掘り」と呼ばれる零細なもので、わずかな水害などで閉山するものが多かったそうです。

 そこで、福岡県は明治二一(一八八八)年、小炭坑を統合する「選定坑区制」を定めて整理を行っています。明治二〇年代になると貝島・安川・麻生などの地元資本家が成長し、同二七(一八九四)年の日清戦争、同三七(一九〇四)年の日露戦争を契機にわが国の産業革命期に入ると、三井・三菱・住友などの中央大手資本が進出してきました。

 田川地域は古くから石炭の生産地で、石炭採掘の自由が認められると地元民による採掘が盛んになりましたが、明治十八(一八八五)年~二四(一八九一)年には現在の田川市域は海軍予備炭田に指定されたため、採炭の禁止や制限を受けました。大規模な炭鉱はなく、人口の増加も緩慢でした。予備炭田からの大部分が解放された明治二二(一八八九)年には田川採炭会社が本坑・大藪坑(後藤寺)、伊田坑を開き、後藤寺と伊田が炭都となる素地をつくっていきました。

 遠賀川は早くから年貢米や諸物資の輸送路として利用されていましたが、石炭採掘が盛んになると石炭の輸送が主力となり、明治中期の水運全盛時代には水系に約七〇〇〇~八〇〇〇艘もの川舟(川艜・五平太舟)が往来していたそうです。

五平太船(川艜)船着場跡モニュメント(福智町金田人見)


遠賀川を行く川艜  出典:『筑豊石炭鉱業要覧』


 しかし、増大する石炭生産には対応できず、明治二四(一八九一)年に若松~直方間の鉄道開通以後、川運搬から鉄道輸送へと急激に移行していきました。

石炭の鉄道輸送  撮影:橋本正勝


 鉄道は本線からの運炭線を増強して筑豊独特の網の目のような鉄道網を形成し、国力増強に大きく貢献しました。しかし、昭和三〇(一九五五)年以降のエネルギー革命によって、次々と「ナダレ閉山」を起こしていくことになりました。そして、昭和四八(一九七三)年の貝島大之浦炭鉱の閉山によって筑豊から坑内掘りの炭鉱(註)が消滅し、日本歴史上から筑豊炭田が姿を消しました。

註:露天掘りは昭和51(1976)年

(森本弘行)