筑豊炭田の創業者として大成功を収めた貝島・安川・麻生を世に「筑豊御三家」と呼んでいます。
貝島太助(一八四五~一九一六)は直方の農民の子として生まれました。八歳のときから坑内に入り、父永四郎の採掘を手伝いました。十一歳のときには骸炭焼(かいたんやき)(コークス)の仕事をして家計を助けるなど窮苦の身から石炭事業を興した人です。明治三(一八七〇)年から炭鉱業に従事し、筑豊炭田最後のヤマとして残った貝島大之浦炭鉱(宮若市)を中心に「貝島王国」を築きました。私財で私立大之浦尋常小学校を設立し従業員の子弟教育にも尽力しています。立志伝中の人といわれています。
安川敬一郎(一八四九~一九三四)は福岡藩士徳永家の四男として戸畑に生まれ、十六歳のときに安川家の養子になりました。明治七(一八七四)年、慶応義塾を中退して帰郷し、炭坑経営に着手することになり、事業の拡張を図りました。明治四一(一九〇八)年には、明治・赤池・豊国等三炭坑を統合し、明治鉱業の基礎を築きました。安川は非常に進歩的な人であったといわれ、封建的な納屋制度の廃止や渡り坑夫の定着化をはかった慰労金制度を創始したことでも知られています。教育にも力を注ぎ、明治三五(一九〇二)年に鉱山技術者養成のための赤池鉱山学校、同四二(一九〇九)年には明治専門学校(現・九州工業大学)を創立しています。
麻生太吉(一八五七~一九三三)は嘉麻郡立岩村柏の森(現・飯塚市)の大庄屋に生まれています。明治五(一八七二)年、父賀郎とともに石炭採掘に従事し、同十三(一八八〇)年から炭鉱事業を始めました。明治十七(一八八四)年、鯰田炭鉱の開発に着手し、経営基盤の拡張に努めました。強固な意志と不屈の精神で次々と事業を拡大していきました。炭鉱事業をする一方で、飯塚病院の創立をはじめ、電気やセメントなど多角経営を行い、現在の麻生産業の基礎を作り、各業界に尽力しました。筑豊石炭鉱業組合総長、石炭鉱業連合会会長などの要職を歴任しています。