コラム 日本陸軍の父山縣有朋(やまがたありとも)と国防 下関要塞司令部と鉄道路線

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 日本陸軍の父と呼ばれる山縣有朋(やまがたありとも)は天保九(一八三八)年、長州藩の下級武士の長男として生まれました。松下村塾で学んだ後、高杉晋作が創設した奇兵隊に入隊し、隊の実権を握った慶応二(一八六六)年の第二次長州征討では、小倉城を攻め落として、小倉藩を香春の地へ追い落とす活躍を見せました。香春に退いた小倉藩は金辺峠を最後の防衛ラインとして死守しますが、この時、山縣は峠の堅固さを思い知りました。明治維新後の日本は、近代化が進み、誕生間もない明治政府は常に外敵の恐怖にさらされていました。特に、日本の最大の強敵であった清国(中華人民共和国)に近い関門海峡の防衛は至急最大の課題でした。

 明治二〇(一八八七)年、関門海峡防衛を目的に、下関要塞が起工されました。この要塞の範囲内は重要な軍事機密であり建築物はもちろん、写真撮影なども厳しく制限されました。また、周辺地域においても、外壁の高さなど細かい制限が設けられていました。この制限区域には金辺峠も含まれていました。日本陸軍の中心人物として国防の責任者であった山縣有朋は幕末の金辺峠攻めの経験から、外敵からの防衛ラインとして金辺峠を選定したと考えられます。

旧陸軍下関要塞司令部の門柱


 鉄道にも似たような事象は起こっています。現在の鹿児島線は小倉から戸畑、八幡の海岸沿いを走りますが、かつては内陸部の大蔵を経由するルートとなっていました。これは敵艦が響灘に進出した場合に敵艦の艦砲射撃を避けるためのものでした。日清戦争の勝利によってその懸念がなくなったため、より経済効果の高い海岸線の鉄道許可も下りたということです。日本のジブラルタルと言われる関門海峡は建国以来、数々の戦いの舞台となってきました。平和な時代である今だからこそ、戦争の歴史を後世に伝えることは重要なことと思います。

(桃坂豊)