JR日田彦山線の田川後藤寺~池尻間には、古い橋梁群(きょうりょうぐん)(列車が道路や川の上を通過するための鉄橋)が存在します。筑豊地区の鉄道は、もともと遠賀川水系で運搬されていた石炭を大量にかつ効率よく運搬するために計画され、明治二四(一八九一)年に九州鉄道株式会社によって若松~直方間が開通したのが始まりといわれています。
日田彦山線もその例にもれず、石炭の大量輸送を主目的に開発されました。九州鉄道は小倉―行事間を明治二六(一八九五)年に敷設し、豊州鉄道株式会社(行橋―後藤寺)にあわせて行橋まで乗り入れました。豊州鉄道は明治三二(一八九九)年に後藤寺まで伸びていた線路を、川崎町内の石炭輸送のため川崎駅(豊前川崎駅)まで延長し、その際に橋梁群も建設されました。
橋梁はぜんぶで六つあり、この区間にある道路や河川を越えるため設置されたものです。田川後藤寺方面からそれぞれ溝添(みぞそえ)橋梁、溝添架道(みぞそえかどう)橋梁、山鹿島(やまかしま)橋梁、下大坪(しもおおつぼ)橋梁、中大坪(なかおおつぼ)橋梁、亀田(かめだ)橋梁の名前が付いています。
この橋梁群は、赤村に所在する内田三連(うちださんれん)橋梁(登録有形文化財(建造物))と同じドイツ人技師監修の元、日本人技師によって設計されたようです。その施工は大変丁寧で、一一〇年以上たった今でも現役の橋梁として活躍しています。橋梁は内田三連橋梁のような市松模様の石積みでなく、レンガをち密な計算のもと互い違いに積み上げられています。また、車の往来がある箇所には橋梁が傷つかぬよう御みか影げ石いしを使用するなどの工夫も見られます。橋梁群は勾配に合わせて池尻駅に近くなるにつれて低くなり、亀田橋梁にいたっては、直立できないくらい低くなっています。この勾配は田川後藤寺駅が高台に造られたため生じたもので、当時の蒸気機関車でも通行できる程度に勾配を緩やかにするため、非常に大規模な工事が行われたことが明らかになっています。