ヘルマン・ルムシュッテル
ヘルマン・ルムシュッテルは一八四四年にプロイセン国トリエルの郡長の家に生まれました。コブレンツ州立工業学校を経て機械工場で働いた後、ベルリン工科大学で学びました。彼は陸軍に服役後、学術研究のためフランスで学ぶと、帰国後鉄道局に勤務し、ベルリン府の鉄道敷設工事に技師として従事しました。彼はドイツ鉄道建設会社に入社すると、学術視察のため英国へ派遣され、さらにベルリン市街鉄道の建設及び営業に従事し、米国鉄道視察のため派遣されました。彼はプロイセン鉄道監査官に任命され、工場長、倉庫課長、技術課長、機械製作、資材局長を歴任しプロイセン邦有鉄道機械監督に就任しました。
九州鉄道の事業のため日本外務大臣とドイツ公使が技師ヘルマンを斡旋し、明治二〇(一八八七)年から三年間の予定で日本に派遣しました。彼は日本に派遣される前にも皇居の二重橋や大阪の三大橋をドイツのハルコート製造所において鋳造の設計と製造の監督を任されています。九州鉄道は私鉄でしたが鉄道事業は国家経済の重要事項でした。彼は十一月九日に横浜に到着すると「九州鉄道会社のために採用されたことは、自身は勿論、ドイツの名誉なので、本国に尽くす精神を拡充して本国の名誉を毀損しないように、日本と九州鉄道会社のために尽くすつもりだ」と新聞で述べています。
彼は新橋から有楽町を経て東京駅に至る市街高架線をつくっています。日本鉄道が明治二二(一八八九)年に、新橋から上野までを高架線で結び、三菱ヶ原に中央ステーション(東京駅)を設ける案を決定すると、彼の煉瓦のアーチに鉄道を架ける案が採用されました。彼は明治二五(一八九二)年に九州鉄道を辞して東京へ移りドイツ大使館の技術顧問となっています。彼は日本鉄道顧問となったほか別子鉱山鉄道の建設に関わり、明治二七(一八九四)年、ドイツに帰国しドイツ国鉄に復職しましたが、日本発注の機関車や機器の製作監督に心を配っています。
九州鉄道を始め豊州鉄道の赤煉瓦橋梁には彼の技術が生きています。プロイセン・オーストラリア戦争勝利後、ドイツが工業国へと産業構造転換をおこなったことが、イギリス鉄道技術に対してドイツ鉄道技術を九州へと導くことにつながったといえます。彼は九州鉄道で力を発揮していた頃、自宅から職場まで鉄道を敷設させ、汽車に乗って通っていたほど鉄道好きでした。
野辺地久記(のへじひさき)
野辺地久記は文久三(一八六三)年京都市に生まれ、旧南部藩士野辺地尚義(のへじなおよし)の養子となりました。尚義は蘭学者で伊藤博文や岩倉具視の師匠でした。久記は十六歳で工部大学校土木工学科(現東京大学工学部)に入学し、第四期を首席で卒業すると、十九歳で工部大学助教授に任ぜられ、ペンシルバニア大学土木工学科を卒業しました。
彼は明治二一(一八八八)年三月に九州鉄道株式会社の招聘を受け技師長となり、技術顧問のヘルマン・ルムシュッテルから指導・助言を受けています。
豊州鉄道は技師長に九鉄技師長野辺地を招聘しました。彼は将来、九鉄と接続することを考慮し、工事方法を九鉄に準拠しました。しかし、経済恐慌と豊前地方の水害により、豊州鉄道の工事は一時中断しました。彼は明治二四(一八九一)年九月にシャム国(タイ国)に招聘され鉄道技師として赴任し、任期満了により帰国しています。
豊州鉄道田川線は行橋駅を起点として、伊田駅(田川伊田駅)まで全長約二六kmあります。彼は行橋~伊田全線の測量と設計を七か月間で終え、わずか十四ケ月間で工事を進めたといわれています。彼は明治二八(一八九五)年七月、東京帝国大学工科教授となりました。
豊州鉄道は明治二八(一八九五)年に伊田駅(田川伊田駅)、翌年後藤寺駅(田川後藤寺駅)まで開通させました。その後、豊州鉄道は明治三二(一八九九)年には豊前川崎駅まで開通させました。