下駄っ歯(げたっぱ)と云われた明治の赤煉瓦橋梁(あかれんがきょうりょう) 下駄っ歯構造のなぞ

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【関連地域】田川市 香春町

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 豊州鉄道については将来的に九州鉄道に接続することも考慮し将来複線化を構想していました。その痕跡として残されているのが、下駄っ歯構造の赤煉瓦橋梁(以下「下駄っ歯」)です。

 現在、第一・第二石坂トンネル(みやこ町犀川崎山・赤村大字赤、国登録有形文化財)と内田三連橋梁(赤村大字内田、国登録有形文化財)が有名です。内田三連橋梁は、将来の複線化に備えて増設側の煉瓦の凸凹形状(下駄っ歯)を残しています。

内田三連橋梁(赤村大字内田)


 下駄っ歯の構造物で有名なのが旧九州鉄道茶屋町橋梁(北九州市八幡東区、北九州市指定史跡)で、旧九州鉄道により明治二四(一八九一)年黒崎~小倉間(後に大蔵線)を内陸部寄りに迂回させ敷設されました。それは、陸軍省の要請により、海側だと艦砲射撃を受けやすいと考えられ計画変更したためともいわれています。大蔵線は明治四四(一九一一)年に廃線となっているので、下駄っ歯はかつて謎の構造物とか、単なるデザインではないかといわれていました。豊州鉄道(現平成筑豊鉄道)には、行橋―田川後藤寺間に五三か所の下駄っ歯形状の橋梁が確認できます。豊州鉄道に建設された複線用隧道は、後藤寺駅(田川後藤寺駅)までに第一・第二石坂トンネルと伊田山隧道の三か所です。この下駄っ歯や複線化を見越した隧道など、竣工当時の鉄道構造物が全線にわたって原型を留めているのは全国的にも珍しく価値が高いものです。

 九州鉄道の第一工区として明治二四(一八九一)年に門司~遠賀川間のうち西小倉(旧小倉)~黒崎間は現在と異なり、大門、金田、真鶴、茶屋町、大蔵、尾倉、桃園を通る山側ルートが単線でひかれていました。

 戸畑地区が発展して明治三五(一九〇二)年に海側のルートが完成しました。明治四一(一九〇八)年に複線化されると、山側ルートは大蔵線と改称され、支線となり、明治四四(一九一一)年には廃止となりました。この大蔵線の茶屋町橋梁は複線化未完の凹凸構造(通称、下駄っ歯(げたっぱ)が見られます。正式には茶屋川橋梁と称し、明治二三(一八九〇)年十一月に竣工しました。

 豊州鉄道は単心円アーチで、アーチ構造や複線化対応の下駄っ歯構造は九州鉄道の赤煉瓦橋梁の構造と同様です。田川市大藪地区に存在する橋梁はアーチ構造と複線化対応の下駄っ歯構造を持ち保存状態も良好です。行橋―田川後藤寺間には、全八六か所の橋梁がありますが、五三か所の下駄っ歯構造があります。ほとんどの場所で左側に下駄っ歯があり、左側に複線化の予定であることがわかります。豊州鉄道の複線化計画は左側に鉄道敷地を広く確保しています。右側の下駄っ歯構造もありますが上流側に舟形構造を持たせ強度を高めています。

大藪地区の赤煉瓦橋梁(田川市奈良/川宮)


 下駄っ歯については従来「装飾説」と「構造化一体説」がありました。構造化一体説では小野田滋の豊州鉄道調査により、鉄道複線化を計画した赤煉瓦構造によって景観ができあがったという観点で構造一体化説が証明されました。

 栄町にも下駄っ歯構造の赤煉瓦橋梁が残っています。町の探検にでかけましょう。

(中野直毅)

第3今川橋梁 ※左側が尖頭部舟形水切り(赤村)


橋梁と下駄っ歯橋梁の関係 『鉄道と煉瓦』小野田滋(2004)より作図