石坂トンネル 複線化未完の痕跡と九州最古の鉄道トンネル

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【関連地域】赤村

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 現在の平成筑豊鉄道田川線崎山駅~油須原駅間に第一・第二石坂トンネルと呼ばれるトンネルがあります。現在では〝九州最古の鉄道トンネル〟として知られている第一・第二石坂トンネルですが、このトンネルは約三〇年前までは関係者でさえ〝九州最古の鉄道トンネル〟ということを認識していませんでした。

 石坂トンネルが〝九州最古の鉄道トンネル〟として知られるきっかけは関西在住の大学生の発見でした。この大学生は全国の鉄道の歴史を調べ、鉄道遺産の保存活用、さらには町おこしなどの活動を行っていたのですが、この大学生は自身が発案した「トロッコフェスタinあか村」をきっかけにして田川線(現平成筑豊鉄道)崎山~油須原間に九州最古の鉄道トンネルが存在していることを発見したのです。

 関係者で調べてみたところ、石坂第一・第二トンネルは明治二八(一八九五)年に完成したことが判明しました。当時九州に敷設されていた路線のトンネルを調べてみると、現在は佐世保線や大村線となっている当時の長崎本線のトンネルが明治三一(一八九八)年、佐賀地方と唐津を結ぶ唐津線は明治三二(一八九九)年にそれぞれ完成されたことが判明し、いずれも石坂トンネルより後年に完成したことが確認されました。

完成間近の石坂トンネル(赤村石坂)


 この事実が確認されたことと、JR九州の路線を引き継いだ平成筑豊鉄道のご理解により、石坂トンネルは平成十一(一九九九)年に国の登録文化財に登録され、現在では〝九州最古の鉄道トンネル〟として広く認識されるようになりました。

 石坂第一・第二トンネルは、九州最古の他に、もう一つ大きな特長を持っています。それはトンネル断面が近い将来の複線化を視野に入れた複線サイズの大きなトンネルであるということです。つまり、石坂トンネルは当初は複線化を予定していたというのです。

 このような事例は田川線に見られる凸凹とした面を持つレンガ橋にも見られます。複線化に伴う工事の際に接続部分が凸凹面になっていると、ズレのないレンガ橋拡幅ができます。一方、接続部分が平らな面だと地盤沈下等でどうしてもズレが生じます。つまりレンガ橋やトンネルは複線化を視野に入れた先行投資の跡というわけです。

 それではなぜ、計画されていた複線化されず未完成のままなのでしょうか。ここに至って推測の域は出ることはできませんが、何点かの理由は考えることができます。まず、第一に一編成の列車単位が飛躍的に増大したとことが考えられます。機関車の牽引力が増大したことで貨車も大型化して一度にたくさんの積み荷を運べるようになりました。そのため、従来では二本、三本の列車で運んでいた荷物を一本の列車で運ぶことができるようになり、列車の本数を増やす必要がなくなったと考えられます。

 第二の理由としては田川線を取り巻く環境が考えられます。田川線は明治中期に開通した路線であるため、山越えや小さなカーブといった鉄道にとっての事故の危険が多く存在しました。さらに、田川地方から北九州地区の港への運搬ルートとして平坦な路線の伊田線が整備されたこと、筑豊本線や最短ルートである小倉鉄道(現日田彦山線)なども開通したことによって〝羊腸の小道〟である田川線より早く、また効率的に積み荷を運べるようになりました。そのため、田川線は複線化未完成路線として今に至っているのではないか、と考えられます。

 みやこ町(旧犀川町)には第二今川橋梁とよばれる大鉄橋があります。建設当時の第二今川橋梁は写真のように途中橋脚一本を有するアーチ橋で〝二〇〇フィートの大鉄橋〟と呼ばれていたそうです。しかし、列車の長大化によって橋の強度不足が懸念されたため、現在のように橋脚が追加されました。第二今川橋梁の建設当時の橋台は現在でも残っています。木々に阻まれて見づらくなっていますが、複線分の幅の橋脚がはっきりと残っています。一方、のちに追加された橋脚の橋台の幅は単線分となって、複線化未完成の時系列の流れを見ることができます。

完成間近の第二今川橋梁(京都郡みやこ町)


現在の第二今川橋梁(京都郡みやこ町)


 これらの形跡は明治の先人たちが血のにじむような思いで建設してくれた財産で、文化財の宝庫でもあります。一人でも多くの人に利用してもらい、鉄路が存続できるように願うばかりです。

(桃坂豊)