「一たび此(こ)の中に入れば、あたかも通風器中に在るが如く、忽たちまち三伏の熱を忘れんとす」これは明治二八(一八九五)年八月十七日付の「門司新報」に掲載された新聞記事です。
この新聞が発行される二日前の八月十五日、行橋から伊田(田川伊田)駅間の鉄道(後の田川線)が開業しますが、この時の様子を報道した新聞記事が冒頭の文章です。
この時の様子を少し解説してみると、小倉から行橋を経由した祝賀列車は伊田駅についた後、そのまま進み伊田~後藤寺間の後藤寺トンネルの中で停車します。伊田駅から先はまだ工事中であったものの、後藤寺トンネル(註)は完成しており、ここまで列車は進めました。八月十五日と言えばピークは過ぎたものの、まだまだ酷暑の真っ最中です。列車はもちろん、建物にもクーラーはありません。そこで考えついたのがトンネル内での祝賀会でした。長いトンネルではありませんが、日差しは避けることができ、気温は一定に保たれているため随分と涼しく感じたのでしょう。この心地よさが「通風器中に在るが如く、忽ち三伏の熱を忘れんとす」という表現になったのでしょう。通風器という表現に時代を感じますが、電気で気温を下げるなどという発想はおそらく一般にはなかったことでしょう。しかし扇風機で風を送ることはすでに実用化されていたため「通風器」という表記になったのでしょう。記事はまだまだ続きます。「歓声は隧道中の小天地に充てり」とあり、豊州鉄道社長のあいさつの後、立食パーティー、音楽隊の演奏とあります。さらには芸者さんのお酌の様子もかかれ、「小倉、行橋の芸妓三十余名、杯間に周施するあり」とあります。後藤寺の検香の創業は明治二四(一八九一)年ですが、芸妓は二名しかいませんでした。炭坑景気によって後藤寺の街も賑わいはじめたことがわかります。宴会はやはり、日差しのもとより薄暗いほうが盛り上がるのは今も昔も変わりません。トンネル内の開業式は、暑さ対策に加え会場の雰囲気づくりにも大きく貢献できた絶妙な案ということができるでしょう。
なお、開業式の行われた後藤寺のトンネルは、旧田川市立病院があった丘陵地にあったトンネルですが、亀裂が発生したため、強度の関係から上部の土を取り除かれ切通となり、今は存在しません。
ここで田川線の歴史を簡単に紹介しておきましょう。田川線は行橋に本社を持つ鉄道会社として発足、路線は現在の日豊本線、田川線(平成筑豊鉄道)、日田彦山線の一部で、九州東海岸の交通整備と筑豊地区の石炭輸送を目的として豊州鉄道が計画しました。明治二三(一八九〇)年十一月十九日、行橋―四日市(豊前善光寺駅南六km)、行橋―伊田・香春の鉄道敷設免許を取得して計画は進みます。五年後の明治二八(一八九五)年八月十五日には冒頭で書いたような開業式を行い、翌年二月五日、後藤寺まで鉄路を伸ばしていきます。本来、〝本線〟であるはずの行橋~長洲(現柳ヶ浦)は明治三〇(一八九七)年九月二五日開業で、本線より支線である田川線を先に建設した珍しい例となりましたが、これは筑豊地区の石炭輸送を最優先とした結果でしょう。明治三四(一九〇一)年九月三日に九州鉄道と合併したのち明治四〇(一九〇七)年七月一日、鉄道国有法により九州鉄道は官設鉄道に買収されます。さらに二年後の明治四二(一九〇九)年十月十二日、国有鉄道線路名称制定により、田川線となりました。
建設計画の当初、田川地方の政治経済の中心地であった香春経由の予定でしたが、まだ鉄道に対する認識が薄い時代であったため、地権者等の建設反対にあいました。その結果、鉄路は香春町に入った地点で大きくそれた形になっています。しかし、香春町の中心部に近い地点に〝香春駅〟が設けられ、香春の玄関口としての機能を果たします。大正四(一九一五)年四月一日に小倉鉄道(現日田彦山線)が東小倉~香春経由で添田まで開通しました。田川線より近い地点に香春町の玄関駅をつくるものの、いくら鉄道会社が違うとはいえ、同一名の駅をつくるわけにはいかず、小倉鉄道は〝上香春〟として開業しました。そののち昭和十八(一九四三)年、小倉鉄道は国鉄に買収、それを機に従来の香春駅は村名である勾金駅となり、町中心部に近い上香春駅は香春駅となりました。
註 伊田山隧道(通称後藤寺トンネル)明治三七(一九〇四)年に切通しとなった。
出典『トンネル千夜一夜』 小野田滋