日田彦山線を南下し呼野(よぶの)駅(小倉南一区)を過ぎると金辺トンネルがあり、全長一四四四mの複線断面トンネルです。金き辺べ鉄道は田川地方の石炭を北九州に運ぶため、明治三〇(一八九七)年最難関のトンネル掘削に取り掛かりました。呼野側から工事は始められ扁平三心円という独特な断面のトンネルで、この時点において複線断面としては日本最長でした。しかし金辺鉄道は杜撰(ずさん)な計画と難工事のため三年後解散、鉄道敷設免許も失効してしまいました。引き継いだ小倉鉄道は明治四五(一九一二)年工事を再開し、大正四(一九一五)年に完成させました。小倉鉄道は採銅所側より掘り進み断面を小倉鉄道甲式の形状に改め、呼野側と採銅所側の断面が異なる珍しいトンネルです。
長く工事が中断していたことで風化が進み、落盤事故で尊い人命が失われました。このトンネルについて「両方から掘り進んだがトンネルがずれたため現場監督が切腹した」という話が伝わっていますが、香春町文化財保存協議会会長の故割石清先生も切腹には否定的でした。明治末年、門司港駅構内で突風のため偶然に起こった事故でお召(めし)列車が脱線し、下関のトンネル内で自殺した鉄道員の話がミックスされて切腹というエピソードになったのではないでしょうか。明治天皇も深く憂慮され弔意金(ちょういきん)まで下賜(かし)されたといわれています。
トンネルの呼野側の扁額(へんがく)に「贔屭擘蹋(ひいきへきとう)」とあり、贔屓は中国の伝説の生き物で龍の子の一つ。その姿は亀に似て、重いものを好んで背負うといわれています。〝擘〟とは劈(つんざ)く、突き進む等の意味、また〝蹋〟は〝踏む〟の異体字であり、踏みつける等の意味があります。重い荷物を好む贔屭が、山を貫き、障害物を蹴散らしながら進むという、まさに鉄道に対する力強さと頼もしさを込めた4文字熟語と思われます。
採銅所口には「絶山嶺横(ぜつざんれいおう)」という扁額があり当時の社長である牟田口元学が喜びを表したものと言われています。この四文字熟語があるトンネルは九州では熊本県と鹿児島県の境にある肥薩線(ひさつせん)矢岳第一トンネルで、当時の技術力からいえば現在の青函(せいかん)トンネルに匹敵する大工事であったと言われ、当時鉄道の最高責任者であった二人、逓信(ていしん)大臣の山縣伊三郎が、「天険若夷(てんけんじゃくい)」、鉄道院総裁の男爵後藤新平が「引重致遠(いんじゅうちえん)」という石額を坑口に掲げました。「天下の難所を平地のようにしたお陰で、多くの人間や貨物などの重いものをどんどん遠くに運搬することが出来る。」という意味です。当時の全国的大工事に匹敵する大トンネルがあることは郷土の誇りですね。