内田定槌(さだつち) 特命全権大使

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【関連地域】田川市 香春町

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 内田定槌は、明治~大正時代に活躍した外交官です。

 慶応元(一八六五)年に小倉藩士内田甚蔵の子として小倉に生まれましたが、二、三歳の頃、長州戦争の戦火を逃れて、採銅所(さいどうしょ)の宮原に移り住みました。香春小学校を卒業後、福岡中学校に進み、明治二二(一八八九)年に帝国大学法科大学法律学科(第一部)を卒業しています。外交官として上海(しゃんはい)副領事、京城(けいじょう)領事、ニューヨーク総領事、リオデジャネイロ弁理公使(べんりこうし)〈兼アルゼンチン〉、ブラジル特命全権公使、ストックホルム特命全権公使〈兼デンマーク、ノルウェー〉、トルコ・コンスタンチノープル特命全権大使として勤務して、大正一三(一九二四)年に退官しました。

ポーツマス講和会議

 ニューヨーク総領事時代には、日露戦争の講和条約であるポーツマス講和会議の際に、小村寿太郎ら全権一行のサポートをしています。会議に向けて、先に渡米していた金子堅太郎と小村寿太郎は対策を練るため協議を行っていますが、二人の機密を保持するために、電報を打つときは、金子の名前を使わず、内田の名前を使っていたといわれています。

ブラジルへの移民政策

 現在、多くの日本人がブラジルに移民をしています。そのきっかけを作ったのは内田ともいわれています。内田は、アメリカ在任時に、移民政策に関心をもち、アメリカ国内を調査していますが、アメリカは移民に反対する意見が多く、別の国を探した方がよいと考えていました。

 内田は明治四〇(一九〇七)年に弁理公使として、リオデジャネイロに着任しました。同年特命全権公使となり、ブラジルの気候や情勢を調査し、「家族移民」がよいと判断してブラジル政府や日本政府の了解をとりました。明治四一(一九〇八)年に笠戸丸で七八〇人の移民がサンパウロに入っています。

 このほかにも、京城領事時代には閔妃(びんひ)暗殺事件の処理に奔走したり、ストックホルムに赴任時には、ストックホルムオリンピックが開催された際に、日本代表選手団の世話をしています。また、退官後は、日本トルコ協会の初代会長を務めました。

 明治四三(一九一〇)年に東京渋谷の南平台に建てられた邸宅は、現在、横浜市山手にある「山手イタリア山庭園」内に移築復元されており、平成九(一九九七)年に国指定重要文化財に指定されています。

 なお、明治三四(一九〇一)年には三井田川鉱業所初代事務長(鉱業所長)であった山田文太郎の自宅(三井田川倶楽部)で森鴎外と食事や談笑をしました。

正装した内田定槌(芹野直子蔵)

この写真の裏に次のように書かれています。

「両陛下ノ御召ニヨリ大正十三年六月三日東京宮城ニ於テ催フセラレタル皇太子裕仁親王陛下結婚ノ御餐宴二参列ノ帰途撮影

     正三位勲一等 内田定槌」


内田定槌略歴(監修 芹野直子 宮入久子)

慶応元(一八六五)年 二月十二日

 小倉に生まれる

明治九(一八七六)年十二月廿三日

 下等小学第三級卒業 第五大学区福岡縣管内第三十五番中学区 香春小学 十一年十一ヶ月

明治十(一八七七)年四月二十五日

 下等小學第二級卒業 第五大学區福岡県管内第三十五番中学區 香春小学

明治十年四月二十五日

 下等小学第一級卒業 第五大学區福岡県管内第三十五番中学區 香春小学

明治十一(一八七八)年一月六日

 下等小学科卒業 (十二年二月)

明治十一年一月十九日

 香春小学授業生補 一ヶ月 金壱円支給

明治十一年二月六日

 香春校生徒 下等小学科卒業 賞として地球精図一部下賜 福岡縣 第五大学区福岡県管内第三十五番中学区香春小学

明治十一年二月二十八日

 当分之間調所書記心得申付候

明治十一年三月八日

 香春小学校授業生補 依願免職

明治十一年四月十九日

 上等少学第八級卒業 第五大学区三十五中学區 香春小学

明治十一年七月卅日

 變則中学第六級卒業十四年四ヶ月 福岡師範学校附属變則中学校

明治十二(一八七九)年七月八日

 中学第四級卒業 十三年二ヶ月

福岡中学校

明治十三(一八八〇)年三月三日

 中等中学科第五学級卒業

明治十三年三月十七日

 中学科第三級卒業 福岡中学校

明治十三年七月一日

 中学科第四級卒業 福岡中學校

明治十四(一八八一)年六月廿七日

 中学科第二級卒業

 福岡中学校

明治十四年七月十九日

 福岡中学校副寮長申付候事 但し月給金壹円支給候事 福岡縣

明治十四年十一月一日

 中学科第一級卒業 福岡中学校

明治二二(一八八九)年七月

 帝国大学法科大学法律学科卒業

  同 外務省司法官試補

明治二三(一八九〇)年

 上海副領事

明治二六(一八九三)年

 京城領事

明治二九(一八九六)年

 ニューヨーク総領事 ポーツマス講和会議の現地斡旋事務執行

明治三九(一九〇六)年

 ブラジル、リオデジャネイロ弁理公使(兼アルゼンチン)明治四十年特命全権公使、一時帰国

明治四三(一九一〇)年

 ブラジル特命全権公使

明治四五(一九一二)年

 スウェーデン、ストックホルム特命全権公使(兼デンマーク、ノルウェー)大正十年 トルコ・コンスタンチノーブル特命全権大使

大正十三(一九二四)年退官

 日土協会会長昭和十七(一九四二)年六月二日没

 七八歳 法名大功院殿機外全道大居士。

(辻幸春)