明治政府は、北海道開拓にあたり鉱山の開発を重視し、明治六(一八七三)年アメリカ人地質学者であるベンジャミン・スミス・ライマンを雇い、翌年から三年間にわたって北海道の地質調査を行い地図を完成させました。地質調査の際、助手として調査に随行したのが開拓使仮学校(後の北海道大学)の生徒達です。ライマンの弟子の中に、筑豊炭田の近代化黎明(れいめい)期に活躍する嶋田純一(豊国炭鉱鉱長)、稲垣徹之進(明治炭鉱専務)、安達仁造、山際永吾、杉浦譲三(住友忠隈炭鉱所長)の名をみることができます。山際永吾は、安川敬一郎日記に度々登場します。明治三二(一八九九)年八月三一日、高雄炭鉱譲渡の際の官営八幡製鉄所との交渉時、また明治三四(一九〇一)年五月十・十一日、平岡浩太郎との共同経営の赤池炭鉱買収交渉などで安川敬一郎からの信頼が厚かったようです。
ライマン(來曼(らいまん))の残した功績のうち特に顕著なものとして、わが国の有望な青年十三名を選抜して地質調査に引き連れ、現場で手をとって育成したことがあげられます。その一人一人が、地質調査の技術者たちの草分けとして、全九舖の『鉱山借区図』の作成や北海道・筑豊など全国の炭鉱開発を通して、明治期の鉱業の発展に寄与しました。
一番弟子の嶋田純一
嶋田純一(一八五二―?)は山口県に生まれ、長州藩校の明倫館に学びました。
明治五(一八七二)年に開拓使仮学校に入学し、ベンジャミン・スミス・ライマンに、開拓使仮学校の生徒たちの一人として同行し、北海道の地質調査を行いました。明治十三(一八八〇)年、幾春別(いくしゅんべつ)炭田・奔別(ほんべつ)炭田を発見しますが、ライマンが離日した翌年、明治十六(一八八三)年、地質調査での凍傷で右膝下部を切断してしまいました。工部省鉱山課では、明治十八(一八八五)年頃に『鉱山借区図』を完成させています。この図は、北海道を除いて全国を九区に分けて作成したものです。嶋田純一はライマンの弟子である山際永吾(やまぎわえいご)らと共に活躍し、九州の『鉱山借区図』は、伊能忠敬の実測図及び里程図を基に、現地調査を行い完成させました。全九舖の『鉱山借区図』をとりまとめたのは嶋田純一です。工部省が逓信省と農商務省に分割・統合されると、明治十九(一八八六)年には農商務省の鉱山課長となりました。嶋田純一は他のライマンの弟子たちと共に、明治初期の日本の地質調査のリーダーといえます。
明治二七(一八九四)年、農商務省東京鉱山監督長時代に、三井三池炭鉱事務長団琢磨(だんたくま)に請われて、三井三池の事務長となり、三井山野でも事務長をしています。彼は当時の筑豊石炭鉱業組合総会では三井に在籍したまま明治豊国炭鉱の代表として名を連ねています。嶋田は明治豊国炭鉱(糸田町)では坂道を「もっこ」に乗って出勤していたので「もっこの鉱長」と呼ばれていました。嶋田は、明治四二(一九〇九)年、頼りにしていた残る左足を痛め歩行困難となり、故郷の山口県熊毛室積(むろづみ)(現光市)に帰りました。