久良知一族の炭鉱経営
明治十六(一八八三)年、久良知(くらち)一族は、豊前国築城郡上深野村を出て、父重敏、長男政市、政市の娘婿藏内保房(くらうちやすふさ)と共に田川郡内で炭鉱経営を始めました。政市は不幸にも明治二一(一八八八)年四〇歳で亡くなり、次男の寅次郎が跡を継ぎ、峰地炭坑(弓削田村)をはじめ起行(きぎょう)炭坑、小松炭坑と中元寺川周辺で着々と炭鉱経営を拡大していきました。
寅次郎は明治二八(一八九五)年に衆議院議員に当選しますが、明治三五(一九〇二)年三七歳で東京に上京中、大阪で客死します。父重敏も有能な息子二人に先立たれ気落ちしたのか、二年後に他界しました。その後、同族の藏内家が炭鉱経営を引き継ぎました。
藏内次郎作(じろさく)
藏内次郎作は、米相場に失敗し散財すると、先に炭坑に着手していた久良知政市と甥の保房を頼り、弓削田に来て炭鉱経営に加わりました。子供のいない次郎作は保房を養子に迎えます。
二つの峰地炭鉱
藏内次郎作は明治三五(一九〇二)年には、久良知重敏、寅次郞がすでに明治二八(一八九五)年頃に開発していた添田村に進出し、第二峰地一坑の開かい鑿さくに着手します。九州鉄道とは明治三六(一九〇三)年添田駅(現在の西添田駅)までの延伸を約束して進出しています。
弓削田村の峰地炭鉱は明治四五(一九一二)年までで、翌年から横島坑に改称しています。峰地の炭鉱名が二か所に明治四五(一九一二)年まであったことになります。
小倉鉄道
藏内次郎作は、大正四(一九一五)年に東小倉から上添田(現在の添田駅)まで小倉鉄道を開通させ石炭輸送の効率化を図りました。
田川郡内の小倉鉄道の駅名は採銅所、上香春、上伊田、今任、梅田、伊原、上添田(一時彦山口)となっています。先に開業した行橋からの田川線が香春(現勾金駅)、伊田、添田(現西添田駅)と駅名をつけているために、重複駅名を避けるために上をつけていました。昭和六〇(一九八五)年四月一日には香春~大任~添田間の添田線が廃止されています。
峰地炭鉱の米騒動
大正七(一九一八)年七月二二日、富山県魚津町の漁師の妻達が米の値段の高騰に不満を言い合い、五〇名ほどが気勢を挙げましたが、警察官に制止され解散しました。しかし、同じ不満をもつ近隣の町や村を巻き込み、八月初めには富山県全体に米騒動は波及しました。
発端は、第一次大戦で日本は好景気に見舞われ米価の高騰に拍車がかかり、さらには、投機商人や、地主の売り惜しみ、政府のシベリヤ出兵の発表などが高騰の要因と言われています。
米騒動は筑豊の炭鉱にも波及し、大正七(一九一八)年八月十七日から十八日にかけて起こった峰地二坑での騒動が最も規模の大きなものでした。暴徒と化した鉱夫たちは配給所、派出所などを襲い、小倉鉄道東小倉駅より、北方歩兵第四七連隊の一個小隊が戦闘態勢で乗り込んできました。鎮圧する際「坑夫」が二人亡くなっています。
藏内鉱業の石炭からの撤退
藏内鉱業は、昭和十四(一九三九)年八月、藏内峰地炭坑・大峰炭坑を古河合名会社に譲渡しました。藏内鉱業は、明治十六(一八八三)年、弓削田村から起業した石炭産業から五七年間にして撤退しました。