小倉鉄道と梅田町 伊能下絵図にも梅田町はある

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【関連地域】田川市 香春町 添田町 大任町

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 梅田町は、文化九(一八一二)年七月十四日に伊能測量隊が測量した下絵図の中に梅田町と記されています。つまり、十八世紀には町として成立していたことがわかります。

 鉄道が敷設される明治の中期まで筑豊に唯一あった運搬機関は、底の浅い川舟の川艜(かわひらた)でした。当時彦山川を往来する川艜は、上野盤・金田盤・添田盤の三組に分かれていました。記録では、大任が属していた添田盤に明治十七(一八八四)年二四〇艘、同二二(一八八九)年には二五〇艘所属していたとあります。大任関係の川艜の権利は梅田在住の綿施家が持っていました。綿施家は、旧梅田公民館付近にあった煉瓦造りの蔵に、階下には公租(年貢米)として収穫した藩米を貯蔵し、屋根裏には川艜の部品を保管していました。明治二〇(一八八七)年頃の石炭採掘最盛期には田川郡中で一六〇〇艘近くもあった川艜は、鉄道が敷設されるとともにその数は徐々に減っていき、小倉鉄道が開業した大正四(一九一五)年頃には彦山川から姿を消してしまいました。

 明治二二(一八八九)年に大任村初代村長に就任した植田與六は、豊前八郡の有力者と鉄道敷設事業を企画し政府に許可を申請しました。本線を行橋―宇佐と行橋―豊津―油須原―今任―猪膝間として、支線を香春―今任―添田とする計画でしたが、油須原―勾金―伊田に路線が変更され明治二八(一八九五)年八月に行橋―伊田間が開通しました。路線から大任が外れてしまったことを機に小倉鉄道創設が計画されました。植田與六は村長を退任後、県会議員を一期半、その後も村議を務め小倉鉄道の創設に尽力しました。明治四〇(一九〇七)年に認可を得て、資金難などに苦労しながらも大正四(一九一五)年四月にようやく小倉鉄道は全線開通することができました。

 炭坑景気に沸く中、大峯一坑(旧大峯炭坑二坑)大峯二坑(旧大任炭坑一坑)峯地炭坑、岩瀬炭鉱を経営していた蔵内保房は、これらの事業を統合して大正五(一九一六)年十二月二五日に蔵内鉱業株式会社を設立し、大正八(一九一九)年十一月には三井が所有していた秋永裏の起行小松炭坑を譲り受けました。藏内はここに資本金一五〇〇万円を投入し、大々的に採掘を始めました。これが、大峯三坑です。抗区面積は九六万七四二八坪、捲き揚式で小倉鉄道梅田駅の積込み桟橋まで九六〇m。秋永、島台の田んぼの中央をまっすぐ抜け彦山川の鉄脚橋を渡り、梅田に入る運炭道路(エンドレス)で小倉鉄道梅田駅の引込み線桟橋から貨車に積み込み北九州方面に運び出されます。大峯三坑の高い煙突は圧巻で、黒い煙が絶え間なく風に流れていました。さらに、蔵内鉱業は植田與六所有の坑区のうち地下三〇〇尺(九一m)以下の採掘権を買い取り大峯四坑も開坑しました。そのため安永や成光の田んぼには坑夫たちの社宅が建ち並びました。

 大正末期から昭和初期にかけて、梅田にはどんどん人が集まり、昼夜関係なく賑わい、銀行、郵便局、酒屋、呉服屋、駅付近の飲食店街や商店街、魚市場や野菜市場もあり、梅田に行けば何でも揃うと、赤村や添田町からも買い物客が訪れるほどでした。商店街では年に二回大売り出しがあり、仮装をした商店街の宣伝隊が他町村まで行ったこともありました。また、神幸祭や行事の時には見せ物小屋もありました。のちに大峰三坑が休業すると魚市場は「大任クラブ」という劇場に代わり、町内だけでなく他町村からも芝居に多くの人が集まりました。

 手を上げたらどこでも乗り降りできる乗合自動車一台が梅田を起点として後藤寺―添田間を走っているほか、米国製の三人乗りを五人乗りに改造したタクシーも一台、また、梅田駅には鮮魚や荷物が届く貨物ホームがあり、まさに梅田は流通と交通の拠点のようでした。

 しかし、大峰三坑が昭和初期に休業し、川崎町の万才坑が主力になるにつれて梅田の町もだんだん淋しくなってきました。一方、小倉鉄道も昭和十六(一九四一)年に公布された改正陸運統制令に基づく戦時買収により昭和十八(一九四三)年国有化され国鉄添田線となりました。その後梅田駅は大任駅に改称され、昭和六〇(一九八五)年添田線全線廃止に伴い廃駅となりました。現在、大行事にある大任町交通公園は、大任駅跡地に昭和六三(一九八八)年につくられました。

(米丸明秀)

梅田駅 現大任町交通公園

出典:『小倉鐵道沿線名所図絵』(部分)


大正末から昭和初期の梅田町

①梅田駅

②天満宮

③御旅所

④郵便局(綿施)

⑤酒蔵(酢屋 綾部)

⑥駅長官舎

⑦梅田橋

⑧旅館

⑨魚市場

⑩野菜市場

⑪病院