田川直方バイパスを北上し、田川郡福智町(旧方城町)に入ると、まず、見えてくるのは東長浦という交差点です。切り拓かれた丘陵地に現在はガソリンスタンドやコンビニエンスストアが並んでいますが、その裏手にある高崎池付近で、かつて日本最大の炭鉱爆発事故があったことを知る人は少ないです。(図)『方城大非常』(織井青吾 一九七九)を引用すると
大正三年(一九一四年)十二月十五日火曜日。時計は、午前九時四十分をさそうとしていた。
「人は……常に……」
生徒の声がもれた。いつもとかわらぬ、教室風景である。
その瞬間であった。
天地が裂けたかと思われるような、すさまじい音が教室をつつんだ。床がゆれ、窓ガラスが破れ、チョーク箱が教卓からはねあがった。
「非常や!」
男生徒のだれかが大声で叫んだ。
三菱方城炭鉱は、明治三五(一九〇二)年から昭和三九(一九六四)年まで存在しました。地中深くの良質な炭層を採掘するため地下二七〇mまで掘ることのできる最新式の竪坑(たてこう)(直下型)を備え、最盛期には、二六万tもの採炭量を誇ったそうです。
農村は急激に発展、炭都の一角として様相を変えました。周囲には映画館や芝居小屋、高級料亭や旅館等も立ち並び「眠らない町」と言われるほど。このことを子ども達にも話しますが、全くイメージがわかないそうです。
第一世界大戦が始まった大正三(一九一四)年十二月十五日午前九時四五分、三菱方城炭鉱で大規模な爆発事故が発生します。このことをこの地域では「大非常」と呼びます。当時の証言や新聞記事では「坑口から十mほど離れた煽風機室が壊れ、四散したレンガの破片が六〇m先の事務所のガラスを打ちやぶって飛び込んだ」「約二里(八km)四方まで爆音が響いた」「悲鳴とも、叫びともいえない切ない声が、つぼした(坑底)から聞こえてきた」等々、その悲惨さを伝えています。しかし、方城大非常には、未だ多くの謎が残されているのです。
第一に、爆発原因の謎です。大正四(一九一五)年に三菱がまとめた『方城炭坑爆発調査報告書』では、発火点となるものは「不明」とされています。しかし、福岡鉱務署技師の目黒氏がまとめた『目黒レポート』によると、三菱から貸し出された「安全灯」に問題が生じたとされています。また、『日本鉱業会誌』によると、大正二(一九一三)年、大非常の前の年に、「農商務大臣、たび重なる事故を重大視、各鉱山監督署長に対して、ガス爆発に起因する危険予防の訓令を発す」と記されています。これにより、福岡鉱務署では、三菱方城炭坑をとくに爆発の危険性があるとみて、非常直前の十一月初旬に調査を行っていますが、非常の起こる十二月には、乾燥が高まり入気湿度が四十%まで下がっていたことが記録されています。爆発の条件は着々と整いつつあったとも言えるでしょう。長年にわたり筑豊炭鉱の調査を行ってきた織井青吾氏はその著書『方城大非常』の中で会社側の責任を強く問うています。
第二に、犠牲者の謎です。三菱方城炭鉱の最終発表によると、この事故による死者は六七一人であり、日本最大の炭鉱爆発事故(世界第四位)(表)です。しかし、当時の新聞記事や資料では死者が六五五人から八〇〇人までとまちまちである他、掲載されていない複数の納屋(坑夫が住んでいた)の存在が明らかになったり、死者数と事故後の出炭量の減少分(当時の出炭の能率面を考慮して)とのつじつまが合わなかったりしています。当時「千人以上が死んでいる」と囁かれたうわさも全く根拠のない話ではなかったのです。
炭鉱の歴史は、犠牲の上に書かれた日本の発達史だと言われてきました。この悲しい過去と、日本発展の礎になった炭鉱殉職者を忘れてはならないと、現在でも福智町では町内の小中学校八校で方城大非常の授業が行われ、郷土の歴史に理解を深めています。福智町立伊方(いかた)小学校では、十二月十五日に、全校一斉放送が流れ全学級で方城大非常の授業が行われています。当時の石炭産業を知ることはもちろん、方城炭鉱閉山が原因となり児童数が最盛期の約六分の一まで減少していることや困難を乗り越えてきた先人の努力を考えたり町の課題に向き合ったりして、故郷への誇りを育てています。