コラム 与謝野鉄幹・晶子伊田竪坑を下る

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【関連地域】田川市

 与謝野鉄幹・晶子夫妻は大正六(一九一七)年と七年の二度にわたり九州を旅行しました。鉄幹らは若松・福岡を経て来訪、当時伊田坑の主任だった小林寛(ゆたか)宅に一泊し、六月二一日、得がたい経験であったろう坑内の見学しています。これは明治四四(一九一一)年、小林氏がヨーロッパの炭鉱技術研究のため洋行の途次、たまたま乗り合わせた鉄幹と知遇を得たことが奇縁(きえん)となって実現しました。後日、晶子が小林夫人にあてた礼状で、当時寒村だった伊田村のたたずまいと、水のしたたる坑内の様子がいかにも歌人らしい筆致でつづられています。「その村の人々の涙をことごとくあつめしを私はその日の後にながし居り、申候ひき。また奥様のあたたかき御親切も忘れ申さず候。ながき未来にかけ御厚情を感謝いたし候。地下千二百尺の水の音の今もかたへにいたし候やうときどきおもはれ申し候。写真のいただける日をたのしみにいたし申し候。」次の歌が残されています。


(加治泰幸)

伊田第二竪坑櫓


出典:『小林寛遺稿』 小林孚俊(昭和15年)


伊田坑内の与謝野鉄幹・晶子夫妻