コラム 旧県道(烏尾峠)を越える 森鴎外(おうがい)

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【関連地域】田川市 香春町 糸田町

 森鴎外(一八六二~一九二二)は、本名林太郎。石見国(島根県)津和野藩典医の長男に生まれました。鴎外は藩校養老館に学び、明治五(一八七二)年医学修業のため父に伴われ上京し東京大学医学部に入学、後陸軍軍医となりました。鴎外は明治十七(一八八四)年から四年間、ドイツに留学しました。彼は衛生学を研究する傍ら、西洋の文学・美学・哲学などを熱心に吸収し、帰国後は陸軍医学校の教官をしながら、東京美術学校・慶応義塾で美学美術史を講じました。鴎外は日清戦争兵站軍医部長・近衛師団軍医部長をへて、明治三二(一八九九)年、小倉の第十二師団軍医部長となりました。鴎外は師団軍医部長として、陸軍の演習に参加しており「小倉日記」は、「明治三四(一九〇一)年七月七日午後、旧県道烏尾峠を越え、田川の三井倶楽部山田某家に宿泊した。」と書いています。文中「山田某」は三井鉱山初代事務長であった山田文太郎のことです。第十二師団は烏尾峠を馬で野戦重砲を引かせて越えました。地元の明治の古老は「タイホウ(大砲)道」と呼んでいました。

森鴎外

出典:『鴎外森林太郎』


 鴎外の日記は「独逸日記」と並び「小倉日記」があったとされながら、長い間行方不明となっていましたが、戦後疎開先から持ち帰った鴎外の遺族の持ち物のなかから、偶然発見され、昭和二七(一九五二)年一月刊行の『鴎外全集』の第三十巻に納められました。松本清張の『或る「小倉日記」伝』は、未発見の小倉日記を探す薄幸の青年、田上耕作を描いた実在のモデル小説で、田上青年が死んで、わずか二か月後、鴎外の小倉日記は発見されました。清張は『或る「小倉日記」伝』で昭和二七(一九五二)年後半の芥川賞を受賞し、彼の出世作となりました。

 「小倉日記」の前半部分で「七日。日曜日陰。上三緒に至りて演習す。綱分なる有松某の家に小憩せしに、画幅数軸を示さる。皆逸品なり。曰古法眼筆淡彩松鷹、印壺形、文元信。曰狩野探幽筆水討双幅、敗荷水禽、枯枝双雀、印二、瓢形、文守信、方形、文探幽、曰雪舟筆着色山水、印一、文等揚。以下略」と書いており、綱分触の大庄屋を務めた有松家所蔵の逸品の画幅を見ていますが、この有松家の跡取りは、有松病院(嘉麻市)を開業しました。なお、「はくりゅう園」(飯塚市)の理事長仲谷かおりさんによると、鴎外の見た逸品の画幅は、すべて人手に渡って手元に無いとのことでした。

(仲江健治)