田川市石炭記念公園(三井田川鉱業所伊田坑跡地)には炭坑節に関する二つの石碑が建っています。昭和四二(一九六七)年の「炭坑節之碑」と平成十六(二〇〇四)年の「炭坑節発祥の地」です。「炭坑節之碑」には炭坑節の歌詞が彫り込まれ、「炭坑節発祥の地」は当時の福岡県知事麻生渡氏の揮毫(きごう)によるものです。
♪月が~出た出た 月が~出た♪ でおなじみの炭坑節は、明治期以降わが国の近代産業の発展を担ってきた石炭産業の隆盛のなかで、過酷な労働のなかから自然発生的に生まれてきた多くの仕事唄の一つです。筑豊地方の炭坑では採炭唄(ゴットン節)・石刀唄・南蛮唄・選炭唄などの仕事唄が生まれました。
そして、これらの唄が宴席に持ち込まれ、やがて花柳界で選炭唄に三味線の伴奏がつき、洗練されつつ座敷唄として広く歌われるようになったものが炭坑節です。現在、一般に知られている炭坑節の原型になったのは、三井田川伊田坑で選炭(石炭とボタとを選り分ける作業)の仕事をしていた選炭婦たちに口ずさまれていた場打選炭唄といわれています。
明治四三(一九一〇)年、伊田出身で伊田尋常高等小学校(現・田川市立鎮西小学校)教諭の小野芳香(よしか)(一八九二~一九五八)が、田川地方の民謡・童謡の調査収集に取り組むなかで伊田場打選炭唄を採集し、一部改曲(アレンジ)したものを試唱させています。これが「三弦選炭節」と呼ばれ、現代の炭坑節の原型になったということです。
また、大正十四(一九二五)年には研究授業の参考資料として編纂した「福岡県田川郡民謡・童謡の研究」のなかに「炭坑節(伊田町三井炭坑唄)」として収録しています。これが炭坑節(選炭唄)として記録された最初のものです。小野は昭和三一(一九五六)年、永年にわたる炭坑節の保存・普及による功績によって田川市から表彰されています。
レコード化されたのは昭和七(一九三二)年のことで、後藤寺町検番の歌二(長尾イノ)等三人が日東レコードに「炭坑唄」を収録したことに始まります。
炭坑節は大正から昭和初期にかけて、筑豊の炭鉱主たちが博多・小倉などの料亭で豪遊したこともあって、宴席では欠かすことのできない唄となり、ラジオを通じて全国的にも知られるようになっていきました。炭坑節が爆発的に広まったのは、「戦後の復興は石炭から」という国策に沿って、この唄が毎日のようにラジオ放送されたことによるもので、その軽快なメロディは一般に親しまれ、盆踊りの定番になっていったのです。
昭和二三(一九四八)年、田川郡川崎町出身の民謡歌手赤坂小梅(一九〇六~一九九二)の「正調炭鑛節」がコロムビアレコードから発売されています。三井炭鉱関係のまち(北は北海道砂川市・芦別市から南は熊本県荒尾市まで)では、赤坂小梅招待宴がよく開催され、そのたびに「炭坑節」が披露されたといいます。彼女は炭坑節以外にも全国各地の民謡を吹き込み続け、大衆音楽の中に「民謡」というジャンルを確立したという功績から昭和四九(一九七四)年に紫綬褒章を、同五五(一九八〇)年には勲四等宝冠章を受章しています。
いつのころから「炭坑節」と一般に呼ばれるようになったのか定かではありませんが、戦後、「炭坑節」の名で全国的に流行し、盛んに歌い踊られるようになりました。現在では日本を代表する民謡として海外でも知られるほどになっています。
炭坑節発祥の地・田川としての景観を残す伊田竪坑櫓(たてこうやぐら)や二本煙突とともに、田川のシンボルとしていつの時代までも歌いつないでいきたいものです。