世界の記憶 山本作兵衛炭坑記録画

278 ~ 279

【関連地域】田川市

 世界の記憶(世界記憶遺産)(註)は、「世界遺産」、「無形文化遺産」と並んでユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が実施する三大遺産事業の一つで、後世に伝えるべき価値を持ちながら毀損・消滅するおそれが大きい文書、絵画、楽譜、映画など、世界の重要な記録遺産の保護と振興を目的に、平成四(一九九二)年に開始されています。現在、「ベートーベンの交響曲第九の楽譜」(ドイツ)、「アンネの日記」(オランダ)、「アンデルセンの原稿筆写本と手紙」(デンマーク)、「マグナ・カルタ(大憲章)」(イギリス)、「人権宣言」(フランス)などが登録されており、日本からも「山本作兵衛コレクション」(二〇一一登録)、「御堂関白記」(二〇一三登録)、「慶長遣欧使節関係資料」(二〇一三登録)、「舞鶴への生還」(二〇一五登録)、「東寺百合文書」(二〇一五登録)、「上野三碑」(二〇一七登録)、「朝鮮通信使に関する記録」(二〇一七登録)の七件が登録されています。

註 当初、「世界記憶遺産」という呼称を用いていましたが、平成二八(二〇一六)年より英語(Memory of the World)の原義に近い「世界の記憶」を使用しています。

 平成二三(二〇一一)年五月二五日、イギリス・マンチェスターで開催された世界記憶遺産国際諮問委員会(IAC)で、山本作兵衛コレクションとして炭坑記録画を含む関係資料六九七点(田川市所有、石炭・歴史博物館保管・炭坑記録画五八五点、日記六点、雑記帳及び原稿等三六点の計六二七点と山本家所有、福岡県立大学保管・絵画四点、日記五九点、雑記帳及び原稿等七点の計七〇点)が日本初で世界記憶遺産へ登録されました。世界史的に意義深い日本の近代化の過程あるいは産業革命の推移を、石炭を供給し続けた筑豊炭田において、労働者の視点から詳細に記録したものが山本作兵衛コレクションであり、これは世界記憶遺産の一般指針である「人間社会における思索、発見、業績の展開を表象するもの」に一致していることから高い評価を受けました。

山本作兵衛と炭坑記録画

 山本作兵衛は、明治二五(一八九二)年五月十七日、父山本福太郎、母シナの次男として福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(飯塚市)で生まれました。七、八歳のころから坑内に下がり、炭車押しなどをして家計を助けながら小学校を卒業しました。明治三九(一九〇六)年十四歳で福岡県嘉穂郡山内炭坑に坑内夫として入坑したのを始めに昭和三〇(一九五五)年に田川郡猪位金村(田川市)の位登(いとう)炭坑を閉山によって退職するまで、明治・大正・昭和の三時代約五〇年間を坑夫として働いた生粋の炭坑夫です。昭和三二(一九五七)年、宿直警備員として勤務するかたわら、日記の余白部分や広告紙の裏などに炭坑の絵を描き始めるようになりました。作兵衛六五歳のときです。翌年の五月からは画用紙に墨で描くようになりました。

山本作兵衛翁 撮影:橋本正勝


 「ヤマは消えゆく、筑豊五百二十四のボタ山は残る。やがて私も余白は少ない。孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思いたった。文章で書くのが手っとり早いが、年数がたつと読みもせず掃除のときに捨てられるかも知れず、絵であれば一寸と見ただけで判るので、絵に描いておくことにした」ということです。

 炭坑記録画は、主として作兵衛が青少年時代を過ごした明治・大正期から、機械化が進み始めた昭和初期にかけての炭坑での坑内外労働や施設・管理、生活、俗信・縁起、ヤマを訪れた芸人・商人、流行歌、動物、米騒動、ケンカ、リンチ、主な出来事などをテーマに、炭坑での仕事から生活にいたるまで、解説文がついて驚くべき正確さと緻密さによって描かれています。まさに炭坑社会での生活の実感をとおして生まれた「炭坑生活誌」です。「山本作兵衛翁」は昭和五九(一九八四)年に九二歳で亡くなるまで記録画を描き続けました。

(森本弘行)

世界の記憶登録証 提供:田川市石炭・歴史博物館


昔のヤマ人 田川市石炭・歴史博物館所蔵 C Yamamoto Family


朝の坑夫 田川市石炭・歴史博物館所蔵 C Yamamoto Family


坐り掘り 田川市石炭・歴史博物館所蔵 C Yamamoto Family