山本作兵衛と位登炭坑 戦争前後の人々の暮らし

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【関連地域】田川市

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 「山本作兵衛翁」のいた位登炭鉱は軍需景気にあおられた頃の昭和八(一九三三)年、田川郡猪位金村(田川市)に長尾達生により、長尾鉱業所位登炭鉱として開坑しました。中小炭坑ですが、戦前は生産高五千tで戦後も重要炭鉱でした。

 日常を精緻に綴り続けた『山本作兵衛―日記・手帳―』(以下「日記」と記す)は貴重な当時の記録であり、一部引用させてもらうことで、戦前から戦後を再現してみましょう。

 昭和十五(一九四〇)年九月二四日 稲築(いなつき)鉱より位登炭坑に移っています。長尾達生は義弟で、長尾の妻は山本の妹です。挙国一致、炭坑増産の中、義弟長尾からの機械鍛冶工の経験を買われての依頼でした。長尾炭坑では山本は採炭係として、坑内現場の指導監督にあたりました。

 「十一月十二日 火曜(略)渡辺店デ花井トと吾二、花イ一のむ、ヤキトーフ二個(略)」

 仕事が終わり一杯、「作兵衛さん」の本領発揮のようです。その後の日記には頻繁に下位登の渡邊店・藤山店が出てきます。

 戦時色が強まる中、昼食に慌ただしく食べた「報国パン」のことや日常の細かな生活出費のこと、機械鍛冶工として技術にあかるい面を発揮して、寡黙で几帳面な観察眼がその記述にあふれています。また、年末の慌ただしさの中にも位登の人々の助け合いの姿を感じることのできる内容も記されています。

 後に「炭坑資料を集める運動」に共鳴して炭坑記録画を描くとき「うそを一寸でも描くことが嫌い」だったと述懐していたという山本の正確な観察眼が至る所に生きていくことになりました。

 「(昭和十九年)三月十八日 土曜(略)配給酒四合藤山ノ主人(酒四合ビンヲ割リシ由)(略)」

 しだいに戦時下の様相を呈してきた位登でも、酒も配給となり、酒瓶も貴重になってきたのでしょう。物資の欠乏がしだいに人々のくらしを圧迫してきたのでしょうか。

 「(昭和二〇年)八月八日(略)敵機オキナワヨリ数百 飯塚上空方面ヨリ北上ス 心配ノ種(略)七日正午過ギ 敵機ハ宣傳ビラヲ散布セシ由 位登ノ 藤山店附近ニ(略)」

 位登の人々にも戦局の逼迫が感じられるようになりました。米軍の宣伝ビラは「伝単」といわれ、各地にまかれたビラを持っているだけで非国民と言われるような時局でした。

 六日は広島に原爆が投下され、この八日は八幡大空襲の日です。九日は長崎に原爆が投下され十五日には「終戦の詔書」のラジオ放送へと続いていきます。朝日新聞などは八月六日の原爆投下を新型爆弾として報道しています。

 「(八月)●十五日(略)嗚呼無念ナリ(●阿南陸相自決サレシ由●)(略)十二時重要放送アル由無条件降服(ママ)トノ事ワレキゝトレズナルモ確実ナラズ夕刻確定ス(略)」

西日本新聞 昭和20(1945)年8月15日


 阿南陸相自決は十五日陸軍発表、十六日新聞報道ですから、号外並みの早さで位登にも伝わったことがわかります。

朝日新聞 8月16日


 「(八月)廿三日(略) 八月六日午前八時頃 広島ニ対シ敵ノ原子爆弾ハ 実ニ言語に盡セヌ 悲惨デアッタ事二十二日ノ朝日新聞ニ掲載サレアリ 一発ニテ全市全滅 死傷二十万人即死十万以上 重傷五六万以上 偲ダニ無念ヤルカタナシ(略)」

 広島原爆投下は、西日本新聞八月八日、朝日新聞は九日、長崎原爆投下は、西日本・朝日ともに八月十日に掲載されています。情報の遅さは、軍の報道管制や報道機関の壊滅など様々な要因が考えられます。

 「(八月)二十九日(略)(二十六、廿七、廿八、地載機)米機三井田川坑ノ米捕虜ニ食料ヲ投下スル(午后二時)」

 三井田川鉱業所にあった捕虜収容所(主に豪州兵)などへの数度の食糧投下があったことがわかります。

 「第三の原爆」といわれた十一月十二日の二叉トンネル爆発事故のことは、十三日の日記に「昨夜大分方面二大爆発アリ。軍器破壊カ。右ハ彦山トノ事」とあります。新聞記事では十四日の、朝日新聞(写真付)、西日本新聞、毎日新聞(西部版)等の地方紙に掲載されたのが初めてとなります。

 『筑豊炭坑絵巻』の自筆年譜によると、昭和二〇(一九四五)年五月十六日に長男光は軍艦羽黒沈没により戦死しています。昭和二一(一九四六)年二月二七日、田川市長林田春次郎名で長男光の戦死の報が届きました。山本の我が子を失った悲しみは、いかばかりであったことでしょう。

 「(昭和三十一年九月)12日(略)下位登二転宅(略、再度九月十二日記述)長男光が出征した処で思出は多いがヤマが終りし事なれば それ等の追懐に悩むもムダ」

 位登炭坑閉山のため十三年ぶりに位登に戻りました。長男光が出征した場所に戻り感慨深く、ここから本部事務所の夜警勤務に通いました。長男のことが頭に浮かんで消えないため、気を紛らわすために日記の余白部分や広告紙裏等に炭坑の絵を描くようになったといいます。自筆年譜には「ヤマは消えゆく、筑豊五百二十四のボタ山は残る。孫たちのためにヤマの生活やヤマの作業や人情を残しておこうと思いたった」と書かれています。

 その後、山本は下位登公民館文化祭に絵を出品しています。昭和三八(一九六三)年三月には、昭和十五(一九四〇)年から二四年間暮らした位登を去り、弓削田へ移りました。

 戦前から戦後を懸命に生き、家族から愛された「作兵衛さん」の寡黙で几帳面な姿、だれに頼まれるでもなく黙々と描き続けていた姿に、戦争が人々の生活へおよぼした影響の大きさについて考えさせられます。

(加治泰幸)

出典 『山本作兵衛日記・手帳解読資料集』福岡県立大学付属研究所生涯学習福祉研究センター

昭和37(1962)年、長尾達生像落成式の祝賀宴会の事も日記に出ている。辰巳公園の長尾達生像(田川市弓削田)


位登炭坑関連図(田川市位登・弓削田)

1 長尾関連地域 2 長尾達生象(辰巳公園) 3 位登炭坑社宅跡 4 位登の商店等 5 位登八幡神社 6 位登八幡神社の御旅所 7 位登炭坑(長尾炭坑)