昭和二〇(一九四五)年十一月十二日五時十五分に彦山駅の南方の二又トンネル(未開通)で、トンネル内に格納されていた旧日本陸軍の火薬類が大爆発をおこしました。
小倉市(北九州市小倉北区)には多くの軍事施設があり、陸軍小倉兵器補給廠の山田填薬所の火薬庫一棟が前年の昭和十九(一九四四)年八月二十日の空襲で焼失しました。そのため、火薬類の疎開先として彦山駅南方の二又トンネル(二〇〇m)さらに南方の吉木トンネル(五〇m)に決定されました。両トンネルが絶好の地下火薬庫となり昭和二〇(一九四五)年三月頃から火薬類の搬入が始まりました。未開通の両トンネルまでトロッコのレールを引き搬入しました。運搬には地元の住民の奉仕と、時には町内小学校高学年の児童まで参加して搬入されました。
昭和二〇(一九四五)年八月十五日終戦となり、進駐軍の第一三〇師団より火薬類の引き渡しの指示があり、引き渡しは十一月八日に決定し、火薬類は日本陸軍から占領軍当局に引き渡されました。火薬類を引き渡した四日後の十一月十二日、占領軍のH・ユルトン・ユーイング少尉が下士官、兵六名を引き連れてジープで添田署に到着し、和田署長にトンネル内の火薬を焼却処分すると伝えました。ユーイング少尉一行は最初に二又トンネルの先にある吉木トンネルに行き、トンネル内の火薬入りの木箱から火薬を取り出し数十mほど火薬を散布し導火線の代わりとし、午後一時頃ライターで点火しました。しばらく見守ったのち警防団の一部を残し、同行した岸田警部補は近隣の住民に注意を促した後、二又トンネルの北側に向かいました。ここでも同様に火薬を散布し導火線に午後三時ごろ点火しています。点火を確認してユーイング少尉一行は ジープに乗って帰って行きました。
午後三時ごろ火薬に着火した炎は、龍の舌のようにトンネルからチョロチョロと出入りしていたが次第に激しくなり対岸の家に燃え移っていきました。警防団が手押しポンプで消火を始めましたがどうにもなりませんでした。午後五時十五分に大爆発が起こり、警防団の数十名も一瞬にして土砂に埋まり犠牲となりました。土煙の収まったのちに二又トンネル方向を見ると、通称円山は大爆発により二つに分離していました。この大爆発によりどんぐり拾いに行っていた落合小学校の二九名、彦山駅折り返し列車待ちの駅前広場でこの様子を眺めていた人も犠牲になりました。爆発日時
昭和二〇(一九四五)年十一月十二日 午後五時二〇分
被害地 添田町大字落合二又・円山のトンネルを中心に約二km内外
死者 一四五名(男子七九名 女子六六名)
負傷 一五一名(重傷二九名 中傷四名 軽傷八八名)
家屋 埋没九戸 全壊二五戸 半壊二八戸 破損七〇戸
この爆発事故については、公式発表は午後五時二〇分となっています。しかし、地元の人たちはこれより早かったといっています。田川線行橋駅発車の四〇九列車の彦山駅到着時刻は爆発時刻と同じ午後五時十五分で、沿線の火災で遅延していたとの話もあり、定時で到着していたら更に多数の犠牲者が出ていたと思われます。吉木トンネルの火薬は四〇数日間燃え続けました。トンネル内の火薬の容積は二〇~二五%でしたが、二又トンネルは左右に五〇cm、上部約一m八〇cm空間を残すのみで、ぎっしりと詰め込まれていました。さらに二又トンネルの南側出口が土砂崩壊で塞がれていたという話もあります。
この事件はNHKニュースや東京発行の全国新聞でも報道されず、福岡の地方紙(西日本・朝日・毎日)に掲載されたのは二日後の十一月十四日でした。
『三発目の原爆』は五十年経て初めて、筆にすることができた当時を描写した絵本です。命をかけて私を守ってくれた父、友や近隣の人たちの顔が浮かんでくるのです。絵本は、今でも平和学習で使われています。
心の傷 綴る筆先に 菊の影