近現代の田川と文化(概説) 豊前と筑前が生み出した多様性と豊かさ

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【関連地域】田川市 香春町 添田町 糸田町 川崎町 大任町 赤村 福智町

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 田川地方の文化へ大きな影響を及ぼしたのは中世後期の戦乱の頃です。天文から永禄期に大友支配が豊前国宇佐郡にも及び従来の秩序や支配の在り方が否定されていきました。九州最大の荘園領主の宇佐宮も例外ではありませんでした。今井津須佐神社から祇園祭が勧請される等の大きな動きが特徴のひとつです。

 次に田川地方の文化に大きな変化が訪れたのは幕末の激動期から明治初頭です。小倉藩は幕府から九州探題のような任務を任されていたため、戦略的最重要地として小倉戦争の激戦地になりました。豊前の地は大混乱の内に幕末を迎え、廃仏毀釈や廃藩置県などの大変革が起き、修験道衰退などの大きな動きが起きました。

 三番目は明治期の筑豊炭田開発期です。日本の急速な産業化を支えたのは石炭ですが、田川地区の採掘は近世から行われ幕末には藩の統制のもと、若松港などから船によって運び出されていました。遠賀川の水運により、炭坑開発は福岡藩に遅れながらも順調に進みます。鉄道建設は北海道にわずかに遅れますが、筑豊炭田開発とともに鉄道網は整備され、三井・三菱などの財閥が進出してきました。

 三井田川炭鉱には森鴎外や与謝野鉄幹・晶子夫妻、斎藤五百枝といった在京の三井職員と交流のある著名人・文化人が訪れ、滞在中に描いた作品や訪れたおりの記録が残されています。

 また、三井田川炭鉱では美術団体やオーケストラ、合唱団、短歌、俳句といった文化サークルの活動が行われました。これらのサークル活動は教育関係者、同行者を含め自治体単位の組織へと発展し、地域独自の文化を形成してきました。現在でも田川美術協会や田川ジュニアオーケストラ、田川合唱団などに三井田川炭鉱のサークル・団体の活動が継承されています。

 筑豊地方は筑前国と豊前国が隣接する地域ですが、石炭産業によって産業と生活範囲である筑豊が形成され、多様性と豊かさという新しい文化的価値が形成されていきました。神楽や盆踊り、神幸祭といった民俗においても独自の発展を遂げ、特に旧筑前側に接する福智町から中元寺川流域においては、旧筑前の影響が見られます。

 江戸時代までは各村々の神社の祭りで神楽が舞われていました。明治時代になると、氏子で結成される神楽座が各所で生まれました。この神楽座は赤村大内田岩戸神楽、添田町津野神楽、田川市春日神社岩戸神楽が現在も継承されていますが、上野、採銅所などの神楽は途絶えてしまいました。神幸祭は、初夏の訪れを告げ五穀豊穣を願うものとして四月の英彦山神宮(添田町)に始まり、川の流れに沿って田川地域の各地でおこなわれます。神幸祭で一番盛り上がるのは、山笠(山車(やま))(註)とその巡行です。田川地区では豊前系の幟山笠(のぼりやまかさ)と筑前系の飾山笠(人形山笠)、中津祇園から影響を受けた踊り山笠の三種類の山笠があります。

註:古くは山車(やま)。近年山笠と表記されることが多い。

 幟山笠は旧豊前国の今井祇園祭(行橋市)の山車が発祥といわれ、赤村や津野(添田町)といった今川流域や田川市の彦山川流域・金辺川流域、そして上田川方面に多く見られます。田川地域には今井祇園社からの勧請と伝える神社が他の地域よりも多く存在します。川渡り神幸祭で知られている伊田の幟山笠を例にすると、稲穂を表わした五色(ごしき)のバレンと緋色の幟旗、三段に張られた幕には小笠原の三階菱の紋が入ります。山笠には泥幕が張られ波頭が表現されています。山笠にはサシ(山鉾(やまぼこ))と呼ばれる真棒に、御幣が祀られ、中段には玉袋とその下に三輪がつきます。

 飾山笠は、博多の祇園山笠が有名ですが、筑前に隣接する上田川地域では、彦山川下流の筑前地域から伝わったと考えられています。五月の糸田祇園、方城地区の神幸祭、十月の金田神幸祭と下田川地域の祭りで多くの飾山笠が巡幸します。遠賀川流域の山笠は、屋形山とよばれます。また、山笠の飾り付けは、金・銀・赤を主体に飾られた屋形と棒の先の丸い銀色の飾りが水しぶきを想起させます。山笠の前後には、歌舞伎や軍記ものの名場面を表した人形が飾られています。この飾り山笠の人形制作に携わるのが福智町の富田人形師です。

 踊り山笠は大正時代に中津から伊田に伝わったといわれています。踊り山笠は、切妻の一段屋根で、山笠の前方は踊り場、後ろ側は囃子場になっており、上幕はありません。踊り山笠は、伊田と後藤寺の町で出されていました。幟山笠に比べると優雅ですが、次第に衰退してゆきました。現在、川渡神幸祭に伊田の橘通地区で舞踊が披露されています。また、幟山笠の中でたたかれる太鼓や鐘の音も「内がね」「外がね」など、たたく場所や速さで優雅さや勇壮さが表現されています。田川地方の獅子舞は、ほとんどが神幸祭に伴います。獅子舞の分布は、中元寺川流域の福智町、田川市西側、川崎町、彦山川流域では、田川市東側、添田町で伝承されています。これらの獅子舞は、三つの種類に分けることができます。一つ目は田川独自に発達したものと、二つ目は筑前から伝えられたと考えられるもの、三つ目は、英彦山の松会(まつえ)行事で舞われる修験道の獅子舞です。ひとつの地域に三系統の獅子舞が残っているのは県下でも珍しく貴重です。

 川崎町の天降神社神幸祭では山笠が地域の中心部を巡り、五段・六調子の太田の獅子舞が神輿を先導し、曲獅子の永井・東川崎の獅子舞が後ろから囃し立てます。正八幡神社(田原)の神幸祭では、源為朝が奉納したとされる杖楽が有名です。

 位登八幡神社の獅子舞は、五段・六調子の獅子舞で、田川市西部・川崎町に分布する同様の獅子舞の発祥ではないかといわれています。白鳥神社(猪国)神幸祭では、夜に始まる神事で提灯山笠の巡行があり、獅子楽が奉納されます。また、後藤寺の春日神社の神幸祭では、筑前と豊前の要素を持つ岩戸神楽(国指定重要無形民俗文化財「豊前神楽」)が奉納され四月に始まる田川地域の神幸祭を締めくくります。

 このように祭の一部を概括してみただけでも、豊前と筑前の融合で形成された多様性や豊かさが、田川地域の文化に内包され底流を流れる文化的価値となっていったということができるでしょう。

(中野直毅)

風治八旛宮の川渡り神幸祭(田川市伊田)