神幸祭とは、神社に祀られている神が人々の住む里を巡り、願い言を聞いてお帰りになる神事です。通常は、初日に神社を出て(お下り)、その日は御旅所で過ごされ、二日目に神社へ戻ります(お上り)。この間、お供の山笠や神楽(かぐら)や獅子舞、楽などの芸能が要所で行われます。多くの祭りの中でも地域全体が一体となり参加する祭りが神幸祭です。代表的なものが、勇壮さで知られる風治八幡神社(ふうじはちまんじんじゃ)川渡行事(福岡県無形民俗文化財・田川市)です。川の中を渡る色鮮やかな山笠が、お互いに水を掛けあうさまや、山笠を前後に上下させる「がぶり」のようすなど見所が満載です。
神幸祭は、初夏の訪れを告げ五穀豊穣を祈るものとして四月の英彦山神宮(添田町)にはじまり、川の流れに沿いながら田川地域の各地でおこなわれます。田川の神幸祭は、五穀豊穣や無病息災を願った祇園祭りと結びついたものが多く、古くは田畑の耕作を中心とした穀倉地帯であった田川地域の特徴的な祭りでもあります。
田川地域の神幸祭で一番の盛り上がりを見せるのは、山笠(通常ヤマと呼んでいます)とその巡行でしょう。曳山(ひきやま)では地域の子どもから大人までが一緒になって動かし、舁き山(かきやま)では重量のある山笠を成人の男たちが勇壮に担ぎます。伊田の川渡り神幸祭では、豊前系の幟山笠(のぼりやまかさ)の勇壮さに圧倒されますが、その他の地域にも筑前系の飾山笠(人形山笠)が、市内のマチ部では中津祇園から影響を受けた踊り山笠があります。ひとつの地域で三種類の山笠が見られるのは珍しく貴重です。
また、山笠の巡行にかかせない祭り囃子も山笠の種類や地域によって差があるようです。たとえば、伊田の下伊田では、京囃子(ばやし)、西導寺囃子等があり、福智町内の各山笠の巡行にも、伊田地区とは異なる金田囃子と呼ばれる幾種類かのお囃子があります。
これらの、バリエーションに富んだ山笠の秘密を少しだけ紹介します。見学の際に参考にして下さい。
幟山笠
旧豊前国の今井祇園祭(行橋市)の山車(やま)が発祥といわれています。これがおもに今川流域などをひとつのルートとして伝わったと考えられています。今川流域の赤村や津野地区(添田町)、田川市の彦山川流域や金辺川(きべがわ)流域そして上田川方面に多く見られます。伊田の幟山笠の特徴は、稲穂を表わした五色のバレンと緋色の幟旗、三段に張られた幕には小笠原の三階菱の紋が入ります。最も特徴的なのは、サシ(山鉾(やまぼこ))と呼ばれるもので、真棒の中段に玉袋と呼ばれる杉の竹かごが付きます。このかごは神が降臨する依代(よりしろ)です。最上部には御幣、その下に三輪が付きます。昔は、真棒が二つあり大ザシ・小ザシと呼ばれていましたが、電線が通って通行に支障が出るようになったため、大ザシが無くなっています。上赤・下赤地区(赤村)の山笠は、唯一この形を残した貴重なものです。
飾山笠(人形山笠)
田川地域では、人形山を飾山笠とも呼んでいます。香春町本町等では、古文書によると江戸時代から飾山笠(人形山)があったことがわかっています。五月の糸田祇園、方城地区の神幸祭、十月の金田神幸祭と下田川地域の祭りで多くの飾山笠が巡幸します。人形(飾)山笠は、博多の祇園山笠が有名ですが、筑前に接する上田川地域では、彦山川下流の筑前地域から伝わったものと考えられています。
田川を含めた遠賀川流域の山笠は、屋形山とよばれ屋形が大きく表現されています。高さの制限から部分的に山笠前後の両袖部分が両側に開く、箱だしと呼ばれる構造になっています。また、山笠の飾り付けが、金・銀・赤を主体に色鮮やかに飾られた屋形の上に、ポンカンと呼ばれる、棒の先が丸い珠になったものを四方に束ね、屋形の山笠の前後には、数々の歌舞伎や軍記ものの名場面を表した人形が飾られています。睨みをきかせる怖い武将の人形は、魔祓いと共に厄を受けるヒトガタと考えられています。すべての山笠が一同に集結する競演会は圧巻です。
踊り山笠
踊り山笠は、伊田と後藤寺のマチ部で出されていました。伊田の踊り山は、中津から大正時代に伝わったといわれています。例えば中津祇園の堀川通町の記録には、「明治四〇(一九〇七)年、踊車を田川地方に売却した」、と記されています。
踊り山笠は、切妻の一段屋根で、山笠の前方は踊り場、後ろ側は囃子場になっており、上幕はありません。これは山笠の中で舞踊を披露するためのもので、真棒も立っていませんでした。この踊り山笠は、幟山笠に比べると激しい動きが無く華やかさも足りず、踊り手の減少もあって、山笠の老朽化に伴い自然と無くなっていきました。
現在は、伊田の橘通地区に「川渡りを行わない踊り山笠」があり、祭り当日の伊田商店街や田川伊田駅前で引き回され、舞踊が披露されています。