田川地方の祭り行事は、各地域で現在も行われている「神幸祭」にその中心がおかれています。
毎年四月の第二土曜日・日曜日の英彦山神宮の神幸祭を皮切りに、今川・彦山川・金辺川・中元寺川の流れに沿って、五月の第四土曜日・日曜日の春日神社の神幸祭まで各地で開催されます。
神幸祭は、神事そのものはもちろん、山車(ヤマ)や芸能的要素などによって、観客が集まる「祭礼」としての側面も持ちます。
一方で、ごく限られた家筋の人びと(「神家(じんが)」)が代々厳重な世襲制によって守ってきた「祭祀」について、ここでは紹介します。
《宮座(みやざ)》
毎年決まった日に村の社に神をもてなす座を設けて決まった供物(くもつ)を献じ、神前において直会(なおらい)を行う祭祀を「宮座」と言います。
福岡県は全国的に見て宮座の濃密な分布地域に属し、各地で宮座が継承されてきました。しかし、宮座という祭祀の特性上、その歴史や実施状況を把握することは簡単ではありません。
《当場(とうば)、当場渡し》
宮座の準備を受け持つ家を「当場」と呼び、毎年交替で務めます。宮座儀礼の終わりに「当場渡し」と呼ばれる引継ぎが行われ、今年と翌年の当場が盃を交わし、祭帳を受け渡します。かつて当場は神田の耕作を受け持ち、その収穫から神酒を仕込むなど、宮座にかかる一切の準備を行っていました。しかし時代の変化と共に、行事の簡略化も進み、次第に神田の耕作などは見られなくなりました。
《現在に残る祭祀》
添田町落合 高木神社の宮座
旧暦十一月初卯の日に行われていたことから「卯のまつり」とも呼ばれ、昭和五一(一九七六)年からは十二月の第二日曜日に変更し、現在も行われています。
時代と共に簡略化されているものの、和紙を口に挟み、神家が手渡ししながら神職へつなぐ献饌の作法や神饌などは古式通り守られています。
神饌は、饌米(せんまい)や魚、「牛の舌餅」と呼ばれる平たく楕円形に伸ばした餅、神家の庭から採った橘などを供えます。
直会の前にあがる口上は、一時期途絶えていたようですが、『高木神社霜月祭々祀記録』(昭和三一年)を基に昭和五七(一九八二)年に復活しています。来当場は順番で決まっていますが、口上によって一応詮議を行うしきたりがあるようです。
神家にはそれぞれ集落の名を冠した古来の通称「神家名」が使用され、座る場所(神家座位)が定められています。不参加神家の座には、輪切りにした大根に榊を挿した小さな御幣を立てます。
神家数は、上・下落合に各八軒の合計十六軒だったものが、昭和四二(一九六七)年に二軒減り、更に昭和五四(一九七九)年に一軒減り十三軒になり、現在は更に四軒減った九軒になっています。神家が辞退し、新たな神家と交替する場合は、神家名も変わっていたようです。
田川市猪膝 大祖神社の宮座
くにちまつりの行事として、旧暦九月十八・十九日に行われていましたが、戦後十一月十七日に変更になり、現在は十一月の日曜日に行われています。神家は三つの同族集団の本家筋十一軒に限られ、呼び名に「名(みょう)」という中世的呼称を使用していました。明治末期からはこれに分家を加え二三軒まで増えたものの、戦後は八軒にまで減少し、現在は三軒で継承しています。
神饌には牛の舌餅などを供え、境内の木の枝を削った箸を添えるそうです。直会では神酒のかわりに甘酒を回します。
田川市伊加利 百手(ももて)祭
年の初めにあたって悪鬼邪気を払い、その年の吉凶を占う行事です。
四季祭や(春)正月座・正月祭とも呼ばれ、一月中旬の日曜日に岩亀八幡神社を伝承地として執り行われます。
祭典が終わると直ちに撤饌し、甘酒を頂きます。
その後、当場の家の庭に移り、手製の的(鬼の絵を描いたもの)に向け、手製の弓矢を一人二本打ち、矢の当たる位置でその年の吉凶を占います。以前は十軒の神家があったそうですが、次第に減って、現在は六軒で行われています。
当場渡しの際、祭帳と共に的に当たった矢を来当場に渡し、神家は無言で雑煮を食べます。