絵馬は普通、人々の願望や感謝のしるしとして神社、仏閣に奉納されてきたものですが民間信仰の広がりを今に伝える貴重な資料ともいえます。
古代の人々は神が人間界にやってくる際の馬(乗り物)には神霊が宿ると考え、神の使いとして敬う気持ちを持っていたようです。
絵馬の起源は神馬(しんめ)として、生きた馬を献上する古代からの風習にあるとされています。やがて、生きた馬は木や土で作られた馬像で代用されるようになり、平安時代のころにはそれが簡略化されて絵に描いた馬を奉納するようになります。江戸時代になると家内安全や商売繁盛といった願い事を書いて奉納する風習が広まっていきました。江戸の中期ごろになると天井絵の奉納も行われているようです。その後、馬以外の神仏・武者・祭礼図など様々な絵も描かれるようになりました。そして、現在では二〇cm程度の小型のものから二mを超える大型のものなど、いろいろな形・大きさの絵馬が奉納されています。
平成九(一九九七)年度歴史資料調査報告書『福岡県の絵馬第二集』によると、田川地域で最も古い絵馬は、添田町落合高木神社の安永九(一七八〇)年奉納の「繋馬図」です。
最も数多くの絵馬が残っているのは、添田町野田の加茂神社で二四点が確認されています。
江戸時代の天保年間(一八三〇~一八四三)ころから幕末にかけて絵馬の奉納は徐々に増加し、明治時代後半から昭和初期にかけて盛んに奉納されたようです。題材には動物植物が一番多く、ついで合戦武者、日本の歴史物語、風俗、歌仙絵となっています。
糸田町の金村神社拝殿には町の有形民俗文化財に指定されている十五枚の天井絵があります。七〇cm真四角の杉板に虎・猫・鳥などの動物の絵や花菖蒲(しょうぶ)・水仙などの植物が描かれています。また中国や、日本の故事をもとにしたものもあります。他に田川市の岩亀八幡神社や大任町の野原神社の天井絵も知られています。
年代的な画題の変遷は、一七〇〇年代の江戸時代中期には神馬・動物植物が見られ、一八〇〇年代の前半から中頃の江戸時代後期には中国の歴史物語、日本の歴史物語、合戦武者、歌舞伎・風俗・歌仙絵が、明治時代になると神功皇后と応神天皇を抱いた武内宿禰(たけのうちすくね)が見られ、大正時代には忠臣蔵、参宮があり、昭和時代には祭礼、皇室関係が見受けられます。
田川地域で見受けられる絵師については、一七〇〇年代末から一八〇〇年代初頭に如林齋小園琢之、南筑狩野法眼映信が、一八〇〇年代中ごろには斉藤秋圃・松林・豊渓の名があります。明治時代初期には吉嗣楳僊、同三〇年ころには青龍・平井義重・翠石といった名があります。大正時代になると直方町の大山・金田町の前田岱山・博多絵馬師の吉村百耕の名が出てきます。昭和時代に入って戦前期には直方町の大山・絵馬藤・東山・豊津町の安井錦石・直畝・添田町の安藤旭亭・俊次郎・清峰・添田町の井上紫城の名があり、平成二(一九九〇)年には純・如風の名が見えます。また、年代は不明ですが春龍・田川南画会の亀田耕雨・南野栄人・早川徳綱・小倉画人の石南園の名が記されています。
奉納目的を見ると、その時代の世相をよく反映しており、いつの時代も人々が神仏からのご加護を期待していることがわかります。