田川市伊田の彦山川沿いに鎮座する風治八幡宮の川渡り神幸祭は、風治八幡宮と白鳥神社の二基の神輿が、神を奉じた各地区十五台の山車(ヤマ)を付き従え氏子域を巡行し、川を渡って対岸の御旅所で一夜を過ごされた後、再び川を渡って本宮に還幸する祭りです。田川地区では上流の英彦山神宮の神幸祭が終わると上流から中流へと神幸祭が行われ、それに伴い田植えが行われます。
伊田大神と神功皇后伝説
遠賀川流域の田川中央丘陵や田川東丘陵に人々が住みつき、田川市伊田の地でも宮山(高羽山)に神が祀られるようになりました。風治八幡宮にある神功皇后のいわれを持つ「御腰掛け石」は五穀豊穣を祈念する祭祀の場、磐座(いわくら)であると考えられます。伊田の宮山に鎮座した地主神は伊田大神で飯田大神とも称し、海や川に関係した海津見神(わたつみのかみ)です。
神功皇后伝説は「海津見宮の傍らの大石に腰掛け、伊田大神に祈っていたところ、老翁が現れて自ら海津見神と名のり、皇后の守護を約束されました。皇后は社前の田に降り立ち、斎場を設けて佩刀一振りを献上し、海津見神を祀りました。すると吹き荒れていた風雨もおさまり天候が回復しました。皇后は大いに喜ばれ土地の者を召して、今後この田を御木田とし伊田大神を祀るように命ぜられ、この里を「御木田」「飯田」「伊田」と呼ぶようになった」と伝えられています。。
最澄と風八幡宮
最澄は遣唐使船で難破した後、八幡神のご加護で無事に唐へ渡ることができたのですが、延暦二三(八〇四)年に入唐した時と、帰国後九州へ下向した折の二度にわたり香春神社と宇佐宮へ神恩報謝のため参詣しています。遼東半島にいた新羅系海商が支援したといわれる最澄の渡海説話では「八幡神の神恩に感激した最澄は、弘仁五(八一四)年宮山(高羽山)の地に社殿を造営し、霊験あらたかな神功皇后の出来事を後世に伝えるため風の一字を加えて風八幡宮とし、長正壽院を開いて神宮寺とした」と語られます。
地主神を包摂し八幡神が総鎮守の神となると、御祭神も海津見神・豊玉姫命・玉依姫命・神功皇后・応神天皇・仲哀天皇の六柱となりました。元禄元(一六八八)年には、小笠原忠雄公が神功皇后の祈願成就の神徳にちなみ最澄命名の「風八幡宮」に「治」の一字を加え現在の「風治八幡宮」となりました。
中世からの祭り下伊田五郎瀬神事(ごろうぜしんじ)
下伊田の五郎瀬神事は風治八幡宮の宮司が司祭し、宮座や他の祭りもすべて取り決めていました。そら豆の時期であるので「とうまめ神事」といわれ、日が暮れてからの神事で翌日陽が昇る前に還幸が行われるので「もぐら神事」ともいわれていました。五郎瀬神事は神輿(みこし)もない素朴な神事で水穂の耕作を目前にした中世の水口祓いの神事のかたちを色濃く持っています。
明治時代の五郎瀬祭りは「茅の輪に御幣をつけ風治八幡宮で御魂うつしをおこない彦山川を渡り五郎瀬の庚申堂の横に設けた苫小屋(とまごや)まで村人がお供をする。その夜は御旅所でのお通夜があり、夜食の後力士を招いての相撲が奉納された。翌早朝、陽の昇前に前日の通りに行列をつくって彦山川を渡り還御、風治八幡宮拝殿で宮座を営む。物相飯と御神酒が振る舞われ、酒杯が三巡した後に御当場渡(おとばわたし)が行われ盃が回され宮座が終わる」「五郎瀬祭りをしなくては風治八幡宮の神幸はできなかった」「五郎瀬のある下伊田の山車が一番に川を渡っていた」の伝えは、神が夜遅くなって還幸し、夜明けを前に還幸するという神幸の最も古い形をとどめ、中世鎮守神の祓神事の原型の姿を漂わせています。
永禄の頃、この地は毛利氏と大友氏の戦乱で荒廃しました。永禄五(一五六三)年三月二五日に、伊田の村役三名は今井祇園社(行橋市)から祇園の神を勧請し、悪疫平癒を祈願し御願成就の御礼として山笠をたて神幸祭に奉仕したのが始まり、と伝えられており「村人三名になるまで子々孫々、祇園の山を建てる」との願いは村の復興をかけて行われた祭りであるといえます。こうして風治八幡宮の神幸祭の神輿に五色の馬簾(ばれん)と緋幟(ひのぼり)で飾り立てられた祇園山車が付き従う神幸祭の原型ができました。明治二八(一八九五)年、豊州鉄道敷設で中州が消滅し、対岸に御旅所が設置され、全ての山車が川を渡るという現在の川渡り神幸祭のかたちとなりました。