慶応元(一八六五)年、伊加利では悪疫が流行しており、幼児の死亡が相次いでいました。この事に心を痛めた村人たちが、宇賀社(岩亀八幡神社末社)に悪疫退散を祈願したところ「子どもが疫病で死ぬのは親子の愛情が薄いためであるから、子どもが喜ぶ人形芝居を奉納するように」との弁財天のお告げが神主にありました。それ以来正月に悪疫退散の万年願(まんねんがん)として、人形芝居を奉納したのが始まりとされています。当初は、正月初巳の日に、一人遣(ひとりづか)いの串刺し人形浄瑠璃芝居をする旅芸人達を招いて奉納していましたが、明治三(一八七〇)年に旅芸人による上演ができなくなったため、当地の人形師中園孫平が作った神幸山笠の人形を利用して、村人たちによる素人人形芝居を奉納するようになりました。
明治二二(一八八九)年、北原(大分県中津市)の淡路系人形芝居「島屋座」との交流により、伊加利の人たちは、それまで親しんでいた「一人遣い」の串刺し人形(木偶(でく)人形)とは違う、まるで生きているかのように動く「三人遣い」の人形を目の当たりにしました。刺激を受けた村人たちは、早速、人形や衣装を買い付け、翌年に北原の人形師・吉田久吉の指導を受け、明治三五(一九〇二)年には、北原から人形芝居の師匠吉田藤五郎、人形遣い松本鉄蔵両氏を招き、土地に永住させて技術の習得に励み、三人遣いの人形芝居の技術を本格的に身に着けました。そして、明治の終わり頃までには現在の技法を完成させたといいます。明治三六(一九〇三)年「二○加座(にわかざ)」を結成し、後、昭和九(一九三四)年に弁天座(べんてんざ)と改名。人々は農作業の合間に浄瑠璃、三味線、操りの稽古に励み、昭和の前半ごろまで、農作業の合間に、博多、下関、別府、山鹿などへ興行して回りました。第二次大戦中、一時中断しましたが、昭和二二(一九四七)年には再び活動を始めました。その後も遠賀川流域を中心とした各地で娯楽として人気を博しました。昭和二七(一九五二)年には、福岡県で二番目の福岡県指定無形文化財(現福岡県指定無形民俗文化財)の指定を受けました。現在でも人形のかしら、手足、その他衣装、道具類が多数残っており、正月元旦には氏神の岩亀八幡神社で「三番叟(さんばそう)」(天下泰平・五穀豊穣を祝う舞)が奉納されるほか、各地のイベントに招かれています。