篠栗巡礼開創は江戸時代後期の天保六(一八三五)年とされています。田川郡添田町の『中村大庄屋御用日記』にも四国お遍路の親子のことが、文政十一(一八二八)年十月の記事に出ています。また、文政八(一八二五)年の記事には、太宰府市観世音寺の僧侶が十輪院に逗留し、赤村で観音様のお札を配っている様子が出てきます。
赤村には最澄が自ら観音像を彫刻し朝日寺(ちょうにちじ)に尊像を安置したという伝承もあり、観音信仰が濃厚に見られる地域です。「九州西国三十三箇所」は奈良時代にさかのぼるとされる観音信仰です。英彦山霊泉寺は「九州西国三十三箇所」の第一番札所として有名です。
赤村の朝日寺は、寛永年間(一六四―四四)には小笠原忠真公の入国の際、社寺調査を行、瑞宝山朝日寺と称号し、「豊前三三箇所」の三一番の霊場としました。また、田川西国巡礼第一番札所で、「田川新四国巡礼」とかなりの部分で重複しています。「田川西国巡礼」は昭和六(一九三一)年に盛大に行われたとの記録から見ると、近世から近代にかけて観音霊場巡拝が定められたと考えられます。昔は伊田の成道寺が第一番札所であったとも伝えられており、成立時期や信仰圏の広がりは不明な部分があります。
大任町今任原の松霊山十輪院は田川新四国霊場の本部で「田川新四国八十八ヶ所」の第一番札所です。明治三二(一八九九)年、後藤寺町宮尾の有吉利八の発起で十輪院第二二世藤本孝棟とはかり、高野山管長の任命で開創されました。
田川では彦山川を中心に東部と西部それぞれに八十八ヶ所の霊場を開創し、第一区添田、津野、彦山、赤、第二区川崎、真崎、位登(いとう)、猪膝(いのひざ)、金国、第三区後藤寺、第四区糸田、金田、第五区方城、弁城、赤池、第六区香春、採銅所、糒、第七区伊田、第八区大任としました。昭和二五(一九五〇)年、大任巡拝団が組織され、各所に大任巡拝札所が開創されています。
これらの巡礼は「千人詣り」と言われるほど盛んで、若い男女の出会いの場ともなりました。
近年、巡拝者の高齢化もあり、多くの札所がお世話をされる方がいなくなる等で、失われつつあります。埋もれた文化財や歴史が眠っていることも多く、失われた札所も訪ねてみたいものですね。
田川四国東部順拝平成三〇年秋の経路
(一日目)高源寺―馬場―上伊田―稲荷町―紫竹原―糸飛―豊産―自然寺―鉄砲町―川端町。
(二日目)下伊田―宝光寺―伊方―西福寺―八幡町―長浦―広谷―秋里―片辺薬師堂―中津原―朝日寺―小内田―前ヶ原―桑原観音堂。
(三日目)上野里―常福―今屋敷―新町―広谷―長浦―遊月寺―定禅寺―宝珠―柿下―赤村―岩石―地蔵木―大原―中道―常光。
(四日目)神宮院・高座石寺―鏡山―高野―薬師堂―宮尾―延命院教会―照智院―十輪院。
田川四国東部順拝平成三一年春経路
(一日目)高源寺―馬場―上伊田―稲荷町―紫竹原―糸飛―豊産―自然寺―川端町。
(二日目)神宮院・高座石寺―高野―宮尾―延命院教会―浦松―照智院。
(三日目)上野里―常福―新町―広谷―長浦―遊月寺―定禅寺―宝珠―夏吉―下香春観音堂。
(四日目)下伊田―糒―宝光寺―西福寺―八幡町―採銅所―金辺峠観音堂―高原―中津原―柿下―朝日寺―小内田―前ヶ原―桑原観音堂。
(五日目)真愛寺―野田薬師堂―落合―伊原―赤村大原―中道―地蔵木―津野―英彦山泊。
(六日目)奉弊殿―玉屋神社―彦山駅。
※経路は途中省略
※古写真は大正十二(一九二三)年