我が国の巡礼文化の広がりをみていくと、観音信仰は飛鳥時代から聖徳太子の救世観音などの造像例があります。現世利益を説き時代や地域を問わず、人々から受け入れられていきました。平安時代には長谷寺・清水寺など社寺巡礼の観音霊場めぐりが「西国三十三ヶ所」として定められ、民衆の信仰心は全国に広まっていきました。
赤村大内田の瑞宝山朝日寺(ちょうにちじ)は最澄が作像した観世音菩薩像を安置したという伝承がある古いお寺です。朝日寺は大内田の観音様と呼ばれ、小笠原忠真公が豊前に入国のおり「豊前三十三ヶ所」霊場の三十一番霊場となりました。
その後に田川地域において「田川西国三十三ヶ所」が定められました。松霊山十輪院のお遍路田川新四国西部巡り」と「田川新四国東部巡り」の多くの霊場で共通しています。青い札がお大師さんのお遍路札所、白い札が「田川西国三十三ヶ所」です。現在は途絶えてしまい詳しい順路などはこれからの調査に期待するところです。
朝日寺の由来と今日
朝日寺のはじまりは、今から千二百年ほど前と言います。ご本尊は聖観世音菩薩尊像で伝教大師作と伝えられています。弘仁六(八一五)年、戸城山の郷に住んでいた内田四郎兼行(うちだしろうかねゆき)という人物が、尊像を安置したと伝えられています。この兼行は、当時香春岳の麓にある神宮院で中国へ安全に渡海するため祈願していた最澄(伝教大師・天台宗開祖)に心服し、その教えに深く帰依したという記録があります。最澄の教えを地元に、そして御仏のご加護を祈念するため、兼行が尊像を安置し開山したと考えられます。
その後、時は五百年ほど経った南北朝時代、肥後(現在の熊本県あたり)の武将菊池武重が戸城山に築城した際、先ほどの尊像を城内に安置したとされます。
豊臣秀吉の九州平定の折には、城内から現在の地に移し寺を建立したそうです。江戸時代には小倉藩主小笠原家の手厚い庇護を受けていたようです。寺に所蔵されている什物(じゅうもつ)(代々伝わる宝物)には、小笠原家の藩主や家老から寄付を受けたと記録にあります。また、明治・大正期に朝日寺は、豊前西国三十三霊場のうち三十一番目に数えられており、その名残を今に伝える石碑が門前地区に残っています。
境内に安置されている尊像に「伝行基菩薩作弁財天(でんぎょうきぼさつさくべんざいてん)」というものがあります。この「行基菩薩」とは一体どのような御仏(みほとけ)なのでしょうか。
行基菩薩とその存在する意味は?
行基菩薩の「行基」とは人名で、今より一三〇〇年ほど前にあたる奈良時代の僧侶です。行基について簡単に説明しますと、関西地方を中心に貧民救済や治水、水田開発などの灌漑事業、架橋工事など僧侶でありながら多くの社会事業を展開した人物です。また東大寺の大仏建立にも大きく貢献した実績があり、日本ではじめて大僧正の位を贈られました。その後の僧侶たちの見本的存在として、行基は大きな影響を与え、死後朝廷から「菩薩」の称号を賜(たまわ)ったといいます。
それでは問題の仏像に移りますが、「行基菩薩」とは行基の死後、信仰の対象となったことにより生まれたものです。つまり実在の行基という人物が、死後御仏になったということです。先述のような実績と行基の人柄が、神格化したのが「行基菩薩」と言えます。言い換えれば、御利益(ごりやく)のある行基の御霊(みたま)から、ご加護を得ようとするのが行基菩薩に対する信仰です。地域の繁栄や安息を「行基菩薩」を崇(あが)めることで祈る、このような縁起をもとに開山した寺院は日本全国にみられます。また貧民救済に力を注いだ行基の功績にあやかって、ひらかれた温泉も各地に存在します。朝日寺に安置される『伝行基菩薩作弁財天』も、このような信仰や人々の願いから生まれた可能性が高いのです。
『伝行基菩薩作弁財天』は、いつの頃に作られた仏像かはっきりしません。現在調査中ですが、中世から江戸期ごろのものと考えられており、行基や先述の内田四郎兼行が活躍した時代より新しいものと見られます。一体だれがこの像を安置したのかわかりませんが、地域の繁栄と安息を祈るために安置したと言えるでしょう。
このような信仰は福岡県内では稀で、赤村の独特な地域性、民俗や風習を象徴するかのようです。今まではあまり意識することがなかった『伝行基菩薩作弁財天』ですが、あらためてその意味を理解し大切にしたいものです。今後の赤村の平穏な日々を守り豊かな発展をもたらすよう、また皆様のご多幸があらんことをひっそりと見守ってくれることでしょう。