漂泊の俳人種田山頭火は自殺した母親の供養のために、九州西国三十三観音霊場巡礼を思い立ち、昭和四(一九二九)年十一月に英彦山を訪れました。それは修験道の時代英彦山は霊仙寺という霊山で、宗派・英彦山修験道、本尊・千手観音菩薩の三十三観音霊場の一番札所であったからでしょう。
第一回目英彦山来訪
山頭火は日田から岳滅鬼峠を越え夕方英彦山神社(現神宮)に辿り着き、次の句を詠んでいます。
分け入れば水音
暮れて月ある山の宿をさがす
その頃私の祖父(具榮(ともしげ))は禰宜(ねぎ)として在職していて、松養坊にお連れしたようで、友人の荻原井泉水への手紙には、「この宿はここでは最下等でありますのに、眺望と深切とに於いては第一等らしいやうです」と評価しています。次の日は一日かけてお山めぐりをし、鬼神社(玉屋神社)、梵字ケ岩、鬼杉、材木岩、そして本社(上宮)を参拝しています。翌日守実へ向かったようで、次の句を詠んでいます。
すべってころんで山がひっそり
英彦山野営場に句碑があります。
三宅酒壷洞への手紙には、「彦山はよいところでした、二晩とまりました」とあります。
第二回目の英彦山来訪
第二回目の来坊は昭和十(一九三五)年十月で一泊しています。
日田にて木村緑平への手紙には、「日田は六年ぶりですが、やっぱりよいところですね、明日は彦山へ、松養さんを訪ねます、・・・」とあります。十月二七日付彦山にて木村緑平への手紙には、「彦山はやっぱりよいと思ひました、松養さんのところに泊めていただきました、・・・」とあります。
祖父具榮の遺品の中に、山頭火が昭和十年二月二八日に発刊した第三句集「山行水行」があり、次のような直筆の巻頭句が書かれています。
へちまぶらりと地べたへとどいた
そのほかにも次のような直筆句の短冊も残されています。
まったく雲がない笠をぬぎ
[昭和六(一九三一)年層雲発表句]
松養坊は種田山頭火以外にも夢野久作など様々な文人が逗留し、多くの和歌や俳句が残されています。さながら英彦山の文学サロンです。