種田山頭火が初めて英彦山を訪れたのは、昭和四(一九二九)年十一月のことでした。この旅に先立ち、第三回層雲九州大会が博多石城町「新三浦」で開かれ殆どの同人が参加しましたが、山頭火や木村緑平は都合悪く参加できませんでした。大会に続く阿蘇中岳登山の様子は、層雲の通信欄に詳しく掲載されています。
昭和四(一九二九)年十一月十四~十五日の「彦山町にて、木村緑平へ」によれば、「きのふ暮れてつきました、日田から中山まで四里は普通の道でありましたが、それからの三里はかなりな難路でした。それだけ山も美しくご座いました、国有林なので一抱え以上の楓の木もありました」
暮れて月ある山の宿をさがす
と書かれています。
中山は日田から花月川沿いを、北上し皿山の東、数キロのところにあって、戸数も十戸足らず、最果ての集落です。中山から岳滅鬼峠を越え英彦山玉屋神社あたりを目指したようです。このコースは日田方面から英彦山を目指す最短コースです。『田川の文学とその人びと』によると、広瀬淡窓は幼少期病弱でしたが成人して結婚し、その御礼参りを思い立ちます。文化七(一八一〇)年、英彦山権現を目指し出立しました。赤村正福寺の僧、海乗や下僕らの道案内を得て、無事岳滅鬼峠を越えました。その昔、豊後の大友宗麟が英彦山を攻めた時もこの道でした。
荻原井泉水宛て書簡(昭和十四(一九三九)年十一月十四日)によれば「こゝ彦山町―といっても、実は村の一部は、いかにもおちついた、しんみりしたところであります、昔は八百八坊あったさうで、昔からの家はおつとりとした建物であります、紅葉には少しおくれましたけれども、山茶花がさみしくさいてゐます、殊に雪舟仮山(元亀石坊庭園)は内務省指定名勝になつてゐますが、廃園の趣味を十分に味はせてくれました、私のやうな旅人にはあまりにふさはしいほどであります、この宿はこゝでは最下等でありますのに、眺望と深切とにおいては第一等らしいやうです」と書かれています。
また、昭和四(一九二九)年十一月十五日の井泉水宛て書簡では、
「けさ早くからお山めぐりをしました、鬼神社梵字ケ岩、鬼杉、材木岩、そして本社に参拝しました、頂上からのながめはすばらしいもので、大山小山層々と重なり合ひ、遥かに由布岳、久住山、阿蘇まで望めます、半里ばかり岩石のあいだを下れば高住神社(元の豊前坊)、こゝから守美(マゝ)まで四里ありますが、一里ばかり下に山国川の源流、平鶴官林の谷があります、私の最も好きな景勝でありました、途中また溝部村からふりかへつて見る旧耶馬の山々も美観でありました。」昭和十(一九三五)年十月二七日の書簡「彦山にて木村緑平へ」では、
「彦山はやつぱりよいと思ひました、かうして歩いてゐると肉体がダメになつたと痛感いたします、これから帰庵いたします、いづれまた、奥様いかゞ」
昭和十(一九三五)年十月二七日の(小郡から木村緑平宛て書簡)によると、「私はあれからまた戸畑・門司、下関と遊びまはつて帰庵いたしましたが、とうとう卒倒してしまいました、幸か不幸かその日は雨がふつてゐたので雨にうたれて、自然に意識を回復いたしましたけれど、縁から転げ落ちて雑草の中へうつ伏せになつてをりました、さすがに不死身の私も数日間は水ばかり飲んで死生の境を彷徨いたしました、所詮は積悪の報で、自業自得は覚悟してゐましたけれどやつぱり困ることは困り、苦しむことはくるしみました」
死んでしまへば雑草雨ふる
と書かれています。
彦山修験道の開山は、北魏の善正、役の小角、寿元、法連など諸説があります。北魏の善正は『豊鐘善鳴録』によると、石窟に居を構え、衣は葛衣をまとい、食は果瓜を食したと書かれていますが、窟寺では窟そのものが寺であって、伽藍はなく僧侶の持ち物としては、三衣一鉢を身にまとい、日常の食物としては、邑里(むらざと)に出て托鉢(たくはつ)して食を求めていました。そのため、寺院の食堂、厨房、穀倉などの必要はありませんでした。このような簡素
平成三(一九九一)年、スーパー台風十九号の襲来で、英彦山の千本杉は潰滅しましたが、最上部のブナ林は、辛うじて、熊谷先生の指導で回復が図られています。天狗や鬼の伝承も、消滅の危機に瀕しています。山頭火がお山めぐりをした英彦山を私たちも大切にしていきたいものです。
ミニコラム 湯山鉱泉(註)の奇妙な客たち
註:湯山温泉ともいう
昭和五(一九三〇)年二月、山頭火は親友であり豊国炭坑病院の医者でもあった木村緑平や俳句雑誌の同人達と香春にあった湯山鉱泉を訪れますが、にべもなく断られてしまいます。赤茶けた法衣をまとった坊主(山頭火)、普段着に下駄履き(緑平)、伸びきった髪のバンカラ学生、といった風体で、後に山頭火が「こんな人相の悪い人達に泊まられては外の客に困ると思ったに違いない」と書き残すほどでした。丁寧に頼み込んだ末どうにか上げてもらった一行は温泉と鯉コクを堪能した後、河内王陵や高座石寺を訪れました。夕方緑平宅に戻った彼らは酒を飲みながら湯山鉱泉でのできごとを爆笑したそうです。な生活が窟寺に住む僧侶の日常でした。山頭火もそのような心境で英彦山をめぐったのでしょう。