「かもめの水兵さん」や「うれしいひなまつり」など、みなさんにもなじみのある童謡を世に送りだした作曲家河村光陽は明治三〇(一八九七)年八月二三日、福岡県田川郡上野村(あがのむら)(福智町上野)に生まれました。父は富吉、母はヒデノといいました。後に二人の弟が生まれ、光陽は河村家の長男として育てられます。河村家は、福智下宮神社にほど近い場所にありました。このような環境もあり、光陽は神社から聴こえてくる日本の伝統的音色を耳にして育ち、これらが後の音楽活動の原点となったともいわれています。光陽は大正の初めから同七(一九一八)年まで、小倉師範学校に通い、教師を志します。また、光陽は、師範学校で勉強や音楽だけでなく、スポーツにも熱心に取り組みました。とくに剣道と水泳は、相当の実力者だったようです。受賞した賞状が残されています。光陽は、音楽だけではなく、さまざまな才能を持っていました。
大正七(一九一八)年三月、小倉師範学校を卒業した光陽は、金田尋常高等小学校(現在の金田小学校)の先生となります。ふるさと田川郡に帰ってきたのです。光陽二一歳のときでした。そのときの辞令(任命書)が残っています。詳しい経緯はわかりませんが、はじめての辞令を光陽さんが大切に保管していたのかもしれません。
大正九(一九二〇)年、ふるさとで教員生活を送るなかで、光陽は大きな決断をします。ふるさとを離れ、朝鮮に渡ることに決めたのです。
朝鮮に渡った光陽は、各地で学校の先生として働きました。光陽は、なぜ朝鮮に渡ったのでしょうか。それは、音楽の勉強を志し、ロシアを目指したからだと考えられ、音楽への情熱がうかがわれます。朝鮮に渡った光陽でしたが、日本も含めて、世界は激動の時代でした。大正十二(一九二三)年のソ連の誕生など、ロシアもまた激動のなかにありました。大正十三年、光陽は朝鮮の学校を辞めています。ロシア行きの願いはついに叶いませんでした。
朝鮮を離れた大正十三年、光陽は結婚。翌十四(一九二五)年には長女が誕生。同じ年、東京音楽学校に入学します。光陽にとっても激動の時代でした。そして大正十五(一九二六)年、音楽家として初作品を完成させます。そのタイトルは『うれしさ』でした。
その後、光陽は数多くの曲を作曲、自身の主催する小鳩会とのNHKラジオの出演など幅広く活動していきます。日本が戦争へと進んでいく時代、童謡を中心に作曲していた光陽も戦争とは無縁ではなく昭和十五(一九四〇)年頃から戦争を意識した曲が多くなっていきます。そしてようやく戦争が終わった年の翌年、昭和二一(一九四六)年の十二月に四九歳という若さで亡くなりました。
「光陽さん」の残した曲は色あせることなく、今も親しみを持って歌いつづけられています。
(井上勇也)