はじめに
明治三三(一九〇〇)年の三井田川鉱業所の創業は中央の文化を田川にもたらしました。炭鉱には、多くの画家と文人が炭鉱関係者の招きで田川を訪れたことで地域活動文化が栄えていきました。
百円坂倶楽部(三井倶楽部)
正式名称は三井倶楽部。「百円坂」は周辺に三井田川炭鉱上級職員の社宅が建てられ、その高給に対する羨望から付けられた通称が地名となりました。建物は明治三三(一九〇〇)年末の木造建築で引継ぎ業務に本社から派遣される職員の宿泊、会議のほか、本社からの重役や来賓の接待にも用いられました。
三井鉱山の進出にともない、明治末期から大正・昭和にかけて、在京の三井職員と交流のある著名人・文化人がこの地を訪れており、彼らが描いた作品も残されていました。
百円坂倶楽部は平成十二(二〇〇〇)年十二月に惜しまれながら解体されました。
Ⅰ 百円坂倶楽部を訪れた画家たち
斎藤五百枝 一八八二年~一九六六年
上野美術学校(現東京芸術大学美術学部)を卒業後、日本出版美術家連盟に所属し、大正から昭和初期にかけて雑誌の挿絵画家として知られていました。
三井田川炭鉱には大正七(一九一八)年に滞在しており、滞在中に坑内外の風俗を軽妙かつ表情豊かなスケッチ画を描きました。
「炭坑漫画」と題したこれらのスケッチ画は屏風に仕立てられ三井倶楽部に残されていました。
和田三造 一八八三年~一九六七年
東京美術学校西洋画科専科卒業。明治四〇(一九〇七)年、文展に「南は風え」を出品したところ、最高賞にあたる二等賞を受賞し一躍脚光を浴びました。大正十二(一九二三)年から日本画を製作、昭和二(一九二七)年に帝国美術院会員となりました。
百円坂倶楽部には、「南風(はえ)」の下絵と記されたものと、後に寄贈された日本画一点が残されていました。
榎倉省吾 一九〇一年~一九七七年
昭和三(一九二八)年、二科展に初入選、同十七(一九四二)年に同会員となります。昭和二〇(一九四五)年に行動美術協会を設立して会員となり、昭和五二(一九七七)年に没するまで、長老として出品を続けました。百円坂倶楽部には、昭和初期のものと思われる「晩春の英彦山」が残されていました。
鶴田吾郎 一八九〇年~一九六九年
倉田白羊について洋画を学んだ後、明治三九(一九〇六)年太平洋画会研究所に移って中村不折に師事します。大正九(一九二〇)年の第二回帝展に「盲目のエロシェンコ像」が入選し、以後官展に出品します。戦時中は「神兵、パレンバンに降下す」などの戦争記録画を多く描きますが、戦後は日本国立公園三〇点を完成させました。
三井田川炭鉱には昭和九(一九三四)年に来山し、高瀬經敏の案内で斜坑に入っています。
小早川清 一八九九年~一九四八年
明治四五(一九一二)年ごろに上京して鏑木清方に師事、日本画を学びました。大正十三(一九二四)年、第五回帝展に入選したのを皮切りに第七回以来連続入選して注目を浴びました。百円坂倶楽部にも小早川の作品が残されていました。
Ⅱ 三井田川を訪れた作家
森鴎外 一八六二年~一九二二年
鴎外は小倉連隊に勤務していた明治三四(一九〇一)年七月に陸軍衛生隊演習のために烏尾峠を越えて田川を訪れています。鴎外は三井田川の炭鉱食堂で内田ニューヨーク総領事と出合ったことが記されています。鴎外は三井田川炭鉱の初代事務長である山田文太郎の家に宿泊しています。
与謝野鉄幹(寛)・晶子夫妻
大正六(一九一七)年、九州を旅行していた鉄幹・晶子夫婦は旧知であった小林寛(三井田川伊田竪坑開削の機械工手長)の招きで三井田川炭鉱を来訪しています。与謝野夫妻は小林宅に一泊した翌日に小林の案内で竪坑に入坑しました。
与謝野晶子は後に小林夫人への礼状に以下のように書いています。
『その村の人々の涙をことごとくあつめしを、私はその日のうちにながし居り申し候ひき。(中略)地下千二百尺の水の音も今もかたへにいたし候やうときどきおもはれ申し候。』