夢野久作は明治二二(一八八九)年一月四日、杉山茂丸、ホトリ(旧姓 大島)夫妻の長男として福岡市小姓町(福岡市中央区)に生まれました。日本三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』をはじめ、怪奇色と幻想性の色濃い作風で知られています。幼名を直樹、父茂丸は政界に影響をおよぼした玄洋社の流れに属していました。
生母との離別
母ホトリは祖父母より家風にあわずとして離別され、直樹(夢野久作)は祖父母の元に引き取られ、育てられました。このため、直樹はほとんど産みの母の記憶をもちませんでしたが、彼が二歳の時、赤煉瓦博多駅舎の完成祝賀会に、ある女の人の背中に背負われて見に行っています。『その女の人は若くて美しい人で、大きなつややかな丸髷を結っていて、暖かい背中だった。そして襟足の美しい人だった。花火があがるたびに、その女の人の丸髷のつややかな髪に、光が、赤や白や青い色が映えて美しかった。そして帰るとき、時計塔の上から、大きな、大きな、お月様があがってきた。それで俺が思わず、あっ、ぱんぱんしゃん、と言うと、その女の人は、 突然、ぴくっと身をふるわせ、むせび泣き始めた』
杉山家から離別されて、高橋家に嫁ぐこととなった実母ホトリは、祖父三郎平に頼み最後に直樹との別れをしました。
実母ホトリとの再会
日露戦争開戦の前年の明治三六(一九〇三)年に直樹(夢野久作)は、旧制中学修猷館に入学します。寄宿舎生活で自由になった直樹は実母ホトリとの再会を果たします。
実母ホトリは、杉山家から離縁されたあと、福岡日日新聞の記者をしていた高橋郡稲(つくね)と再婚していましたが、夫は明治三一(一八九八)年に亡くなりました。その後、親しくしていた安川家の世話で明治豊国炭鉱の寮母をしていました。
直樹(夢野久作)は、博多から折尾、直方と列車を乗り継ぎ、現在の伊田線糒(ほしい)駅で下車しています。明治三六(一九〇三)年十一月十六日に出発し一七日に帰路についているのが現存する沿線のスケッチの日付で確認できます。
実母高橋ホトリとの別れ
昭和三(一九二八)年十二月十九日の日記
久作は謡を練習中、香椎の杉山豊園からの電話で母の危篤を知ります。生母、高橋ホトリの危篤を知らせる高橋家からの電報でした。《喜円会にて鉢木稽古中、香椎より電話。ハハキトクと高橋より電来、帰宅。》
十二月二〇日の日記
久作は香椎発の列車に乗車しました。東京の父茂丸には事後にオユルシヲコウと電報を打っています。
《九時五十分香椎発、直方より、豊国二坑までシボレーを飛ばす。五円
オモオタホドナシ モヤ(ヨ)ウミルと妻に電打つ ホトリキトク ミマイニユクオユルシヲコウ》
夢野久作が高橋家に到着したとき、生母の高橋ホトリは既に昏睡状況になって意識がありませんでした。この様子を見た夢野久作は、家人の制止するのも聞かず、その枕元に座って、謡曲を謡い始めました。
揮身の力を籠めて、夢野久作の謡う能楽の謡曲は、その社宅のみならず、そのあたりに響き渡りました。
人々は何事ならんと集まって来ましたが、彼があまりに真剣に謡っているので、皆固かた唾ずを呑んで見守っていました。
その内、ふと高橋ホトリは眼をあけて、あたりを見廻すように、眼球を動かしました。
その様子を見た夢野久作は、すかさず、ホトリから見えるように座を彼女の胸のところへ顔が見えるように移し、
「お母さん 直樹ですよっ 直樹がお傍に来ていますよ 分かりますなっ お母さん」と呼びました。
すると、ホトリはかすかにほほえんで、うなづきました。
十二月二三日の日記
高橋家より実母ホトリの死亡の連絡がありました。父に遠慮しているのか久作が葬儀に出た形跡はありませんが句をしたためています。
逢ふて又別れし夢の路の霜
あかつきとほき名残なりけり
十二月二四日の日記
安川氏に、母せわになりし事、礼状出す