コラム 郷土(きょうど)が生んだ文学作家(ぶんがくさっか) 橋本英吉(えいきち)

334 ~ 334

【関連地域】田川市

 橋本英吉(一八九八~一九七八)は現在の築上郡吉富町に生まれました。橋本は六歳の時に父親と死別し、伊田町で豆腐業を営んでいた叔母の養子となりました。高等小学校を卒業した橋本は三井田川鉱業所の坑夫となりますが、文学に興味を持った橋本は二五歳の時に上京します。上京した橋本は労働運動に加わったことがきっかけで失業するという苦難に見舞われますが、大正十五(一九二六)年十一月に『文学時代』に処女作『炭脈の昼』を発表し、プロレタリア作家を志向するようになります。

 橋本の代表作である『炭坑』は昭和十(一九三五)年六月に刊行されました。橋本はあとがきに「本書は私の意図の半分も実現していない。私はこの続きを書いていくつもりである」と記しており、『炭坑』が未完の作品であったことを明らかにしています。

 昭和十七(一九四二)年、橋本は『柿の木と毛虫』で第十六回芥川賞候補となりますが、落選します。この時の主な講評は「芥川賞以上の作家である。」(川端康成)、「単に読物ではない美しい文学だと思ったが、橋本氏は今更芥川賞でもあるまいと云われた。」(瀧井孝作)というものでした。

 橋本は強い意志の思想家で権勢にこびず剛直な人柄でした。その思想と性格のよりどころは幼少より育った伊田町であり、三井田川鉱業所三坑での労働体験があったことでしょう。下伊田の盆踊りの情景表現など如何に郷土に深い愛着を持っていたかが、うかがわれます。晩年の長編となった『若き坑夫の像』「昭和五一(一九七六)年」は自伝的作品で、橋本が育った往年の伊田町と三井田川鉱業所三坑の状況を鮮烈に蘇らせています。昭和五三(一九七八)年四月二〇日、橋本は家族に見守られながら波乱に満ちた生涯を閉じました。享年七九歳。

 田川市石炭記念公園に橋本英吉文学碑が建っています。「働く人々の幸福をもたらすもの、どんな政党政派、思想であろうとも、働く人々のためを思ってくれる者の支持者でありたい」と直筆の一節が刻まれています。

(片岡覺)

橋本英吉文学碑(田川市伊田)