藏内次郎作と言えば「着炭居士」の愛称で有名な時の衆議院議員で、現在は廃線になった小倉鉄道などの設立に計り知れない功績のあった偉い人程度の知識しかありませんでした。その藏内次郎作の銅像が存在したとの話を聞きました。
「ふ~ん何処にあったの、今は無いが。」ところが、次の話にびっくりしました。その銅像の作者が「東洋のロダン」と呼ばれ日本を代表する彫刻家朝倉文夫の制作だというのです。私は朝倉文夫の作品が好きなので、何度も大分県豊後大野市にある「朝倉文夫記念館」に通い、数ある作品の中でも「墓守」の圧倒的な存在感に感動したものでした。その大先生の作品が鎮西公園にあったということ。これは捨ておけんと鎮西公園に車を飛ばしました。
戦時中、私はまだ小学六年生の頃、春秋招魂社の祭りに各学校を挙げて参拝をする行事があった際、正面入口からラッパの音にあわせ「歩調をとれ、前へ進め」の号令がかかり、ザックザックと勇ましく入っていきました。その懐かしの正面入り口は、錆びた鎖で閉じられ、その向うにセイタカアワダチソウやススキなどの雑草がびっしり生い茂り往時の面影は全く無く、懐かしいと思うより、寂しさの思いがよぎってしまいました。肝心の銅像は公園の南側正面から見ると公園の一番奥、「天台寺遺跡」の石碑の右隣の木々の中に堂々と聳えるように立っていた筈でしたが、銅像があったところは無残にも撤去され忠霊塔の碑がわびしく乗せられています。
この鎮西公園は天台寺跡(上伊田廃寺)のあった場所です。大正八(一九一九)年、時の郡長湯浅史郎の呼びかけで郡立公園として決定し、設計者は朝倉文夫でした。大正十(一九二一)年に完成し、藏内次郎作翁の銅像除幕式と開園式が同時に行われています。しかし、悲しい事に戦局が押し詰まった昭和十八(一九四三)年、銅像は拠出され忠魂碑となり、公園そのものは後に田川市に寄贈され現在に至っています。