久良知寅次郎は慶応二(一八六六)年、豊前国築城郡上深野村の大庄屋の次男として生まれ、明治十六(一八八三)年、父重敏、長男政市、政市の娘婿蔵内保房と田川郡で炭鉱経営を始めました。
政市は不幸にも明治二一(一八八八)年四〇歳で亡くなり、次男の寅次郎が跡を継ぎ、峰地炭坑(弓削田村)をはじめ起行(きぎょう)炭坑、小松炭坑と中元寺川周辺で着々と炭鉱経営を進めました。寅次郎は明治二八(一八九五)年に衆議院議員に当選しますが、明治三五(一九〇二)年三七歳で上京途中の大阪で病死します。
寅次郎の銅像は田川市川宮の青龍山法光寺境内にありましたが、戦時中の金属供出令で無くなったものと思われていました。しかし親族の方が首から上の部分だけを保存していました。現在、首の残存部分が、田川市石炭・歴史博物館に寄贈され保管されています。
久良知寅次郞像制作者は明治時代の著名な彫刻家長沼守敬(もりよし)(一八五七―一九四二)です。長沼守敬は安政四(一八五七)年、一関(岩手県一関市)に生まれました。我が国近代彫刻の先駆者です。明治十四(一八八一)年にイタリアに留学し、ベネチア王位美術学校で彫刻を学びました。帰国後は肖像彫刻を中心に意欲的に作品を制作発表し、東京美術学校の塑像科の初代教授も務めました。代表作は明治三三(一九〇〇)年パリ万博で金牌を受けた「老夫像」です。他にも毛利家一族、渋沢栄一、山尾庸三、五代友厚、長谷川謹介などの作品があります。
作品の多くは戦時中金属供出で失われており、作品はあまり現存しません。法光寺の台座には作者長沼守敬の銘が今も残されています。石匠と銘記の加藤卯兵衛は徳山石(徳山みかげ)の名で採掘される黒髪島の開発者として知られています。明治末から「徳山みかげ」の名は、西日本から、満州・朝鮮半島まで広まりました。同島から採掘された石材二〇万切が、国会議事堂の建築材にも用いられています。