映画と田川 Ⅲ 篠原光雄映画看板師職人技の冴え

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【関連地域】田川市

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 田川地区内の映画館には映画配給会社との契約により、最初に上映する第一封切館と数週間遅れて上映する第二・第三封切館のランクがあったとのことです。

 各映画館では、上映前の一定期間、上映する映画の宣伝用に「映画看板」を製作し、映画館や近隣の看板設置場所に掲げました。この宣伝用映画看板は、各映画館で映画看板製作職人(看板絵師)を雇用したり、看板屋に発注していたようです。

 第一封切館では、映画配給会社から送られてくるプレスシート(スチール写真や字体指定)などの資料を参考に、新作映画のイメージを膨らまし、手書きしたそうで、超大作映画や各映画会社の記念映画では、映画看板も大型で製作するため、看板絵師やその弟子数人での分業で大変だったようです。

 田川地区では、地元の画家や看板屋が映画看板を製作していたそうですが田川松竹映劇(田川市平松町)には女性の看板絵師さんが在席されていて、大型の映画看板を劇場入口に掲げ、活躍されていたとのことです。

 映画看板は一週間から十日間の上映期間を過ぎると、次々と入れ替えられ、当時は二本立て上映なので、制作に追われていたようです。また、上映期間が過ぎると、撤去された看板はその上を白ペンキで塗りつぶして、乾かし、その上に、次の上映看板を手書きして、制作するため、上映が終わった映画看板は残りません。(倉庫内の保管場所確保や看板材料節約の為)

 昭和三〇年代になると、映画館が新設され、福岡市内等で修業を積んだ映画看板絵師が田川地区内の映画館に専属の看板絵師として採用されています。

 昭和三四(一九五九)年田川市に筑豊初のバスターミナルが竣工し、その二階に開館した「ターミナル会館」(田川市後藤寺)に看板絵師、篠原光雄氏が採用され、朝映観光(株)経営の「朝陽映劇」(田川市西区本町)「東陽映劇」(田川市伊田町)「ターミナル会館」(田川市本町)の三館を掛け持ちして活躍し、昭和六三(一九八八)年まで多くの映画看板を生み出しました。

 その後、田川市内で「篠原画房」を経営し、一般の看板業でしたが、平成十九(二〇〇七)年に、田川地区内の映画愛好者が結成した「田川映画愛好会」が映画の上映会や映画資料の展示会を実施したことが契機となり、映画館版の制作を依頼し、篠原光雄氏は二十数年ぶりに映画看板制作を再開しました。

 篠原氏は「看板絵を描くのに一番大切なのは似せることなので、修業時代から一生懸命努力をしてきた」と語っています。

 平成二二(二〇一〇)年以降、第五回上映会「フラガール」の看板を手はじめに「ふたたび」「東京家族」「劒岳 点の記」「ホタル」「女たちの都」や邦画の「七人の侍」や洋画の「風と共に去りぬ」等の大作等合計二四枚の映画看板を製作していただきました。これらの映画看板を田川地区の貴重な映画資料として保存する、資料館の設置を切望しています。

(重藤哲男)

龍虎伝看板作成中



看板製作者 篠原光雄