東京オリンピックを翌年に控えた昭和三八(一九六三)年から翌三九(一九六四)年にかけて、田川市郡では大峰炭坑(昭和三八年三月閉山)、三井田川炭鉱(昭和三九年三月閉山)、三菱方城炭鉱(昭和三九年八月閉山)といった炭鉱の閉山が相つぎ、田川市郡の経済は沈滞気味となっていました。
そんな状況を打開すべく、奔走していた坂田九十百(つくも)田川市長は東京オリンピックの聖火リレーが福岡―飯塚―直方―北九州を通り、田川市を通過しないというニュースを知り愕然とします。実は、田川市は国体の聖火や西日本九州一周駅伝、朝日駅伝など有名なスポーツ競技が通過点としていることから、東京オリンピックの聖火リレーも当然田川市を通過するものだと坂田は考えていたのでした。
スポーツの振興によって市民意欲を盛り上げたいと考えるほどのスポーツマンであり、根っからの負けん気の強い性格である坂田は田川市にオリンピックの聖火を招致すべく積極的な運動を始めました。坂田は田川郡部の町村長と議会にも聖火招致の呼びかけを行い、東京五輪組織委員会に聖火リレーの通過の陳情をするために上京を重ねるなど努力を続けました。
田川市に聖火を招致したいという坂田の陳情に心動かされた福岡県聖火リレー実行委員会事務局長の大場哲生はある一計を案じました。なんと大場はコースが既に決まっているにもかかわらず、飯塚―直方間の道路が鉱害のために一部くずれ、田川市経由をせざるをえないというコース変更通知をOOC(オリンピック大会組織委員会)に自ら提出したのでした。
坂田の熱意と大場の英断の結果、昭和三九(一九六四)年三月十八日、聖火リレーのコース変更が認められ、田川地区での聖火リレーが行われることが決まりました。
聖火リレーを二週間後に控えた九月二日、田川市ではオリンピックを記念して体育館(旧田川市武道館)前に作られた聖火台の除幕式と聖火リレー団結団式が行われ、前日の十六日には町の清掃や横断幕やのぼりの設営といった聖火歓迎の準備が行われました。また、赤池町では毎年十月に行われていた若八幡宮の秋祭りを繰り上げるなど田川市郡の歓迎ムードは最高潮となり、いよいよ聖火リレー当日を待つばかりとなりました。
秋晴れの空となった昭和三九(一九六四)年九月十七日、田川市郡の誰もが待ちに待った聖火は十六名のランナーの手によって烏尾峠から田川市、金田町、赤池町を通り、鞍手郡へと引き継がれていきました。聖火を待ちに待っていた田川市郡ではバトンガールや鼓笛隊が応援に出て聖火ランナーの家族が花束を持って声援を送るなどの大盛り上がりとなりました。そこには一連の招致運動による過労で療養中だった坂田の姿もありました。
田川地区への聖火招致の大功労者である坂田は西日本新聞の取材に対して以下のように話しています。「わたしひとりでやったのじゃない。産炭地域振興の意味からも聖火の通過は住民意欲を盛り上げるのに尊い意義がある。組織委員会もその点を考えて変更してくれた」
聖火リレーコース 凡例:青→田川郡 緑:田川市内 紫:飯塚市
電子地形図25000(国土地理院)を加工して作図
青-1(48区) 三井鉱山田川工場 青-2(55区) 糒橋 青-3(56区) 上金田入口
青-4(57区) 金田町役場前 青-5(58区) 赤池スタンド 青-6(59区) 炭坑病院下(明治赤池本部)
青-7(60区) 小峠 緑-1(49区) 見立 緑-2(50区) 弓削田 緑-3(51区) 後藤寺本町
緑-4(52区) 田川市役所 緑-5(53区) 田川東高校前 緑-6(54区) 東大橋