福岡県東部から大分県北部にかけての旧豊前国には、多くの神楽座があります。神話の天岩戸開きを題材にした演目を中心に構成され、岩戸神楽とも呼ばれています。また、鬼のような御先(みさき)(駆仙)が登場する演目が盛んで、修験道の影響がうかがえる湯立神楽も見られます。こうした特徴的な芸態や上演形態などから、平成二八(二〇一六)年(津野神楽は翌二九年)には、豊前神楽として国指定重要無形民俗文化財に指定されています。この中には、田川地域の大内田神楽(赤村)、津野神楽(添田町)、春日神社岩戸神楽(田川市)が含まれています。各神楽座は、伝承等異なりますがこの地域の貴重な民俗芸能です。
大内田神楽(赤村大内田:太祖神社)
明暦元(一六五五)年に始まると言います。当時、この村の農耕用の牛馬に疫病がはやり、人々にも及んだので、村人一同で太祖神社に願掛けをしたところたちまち治まったといいます。そのお礼の行事を決めるべく神籤(みくじ)を引いたところ「四月神楽をせよ」との神意が出ました。これが大内田神楽の始まりです。明治末期まで下城井村(築上町)赤幡神楽を主として招き奉納していたのですが、大正三(一九一四)年に村の同士で、自分たちも覚えようと思い立ち、赤幡神社の神職、神太郎右衛門を招いて、十二名が八〇日間の猛練習をして大内田神楽座が発足しました。幾度かの存続の危機もありましたが、「家が三軒になるまでは神楽を続ける」という万年願として続けられています。かつては、神幸祭で神輿の出御があったときは「お着き神楽」と「お立ち神楽」が二日間に渡って奉納されていましたが、今は四月二八日から二九日の間に行われる神幸祭の初日に「よいち神楽」が公民館で奉納されます。
津野神楽(添田町上津野:高木神社・下津野:高木神社)
津野地区では、古くから願成就のお礼として、芸能を呼んでいました。そのひとつとして神楽があり、当初、京都郡犀川町(みやこ町犀川)鐙畑神楽を雇っていました。その後、大正三(一九一四)年に、神社総代や青年会員の間に、神楽を興そうとの機運が高まり奏楽と舞を習うことになりました。大正五(一九一六)年から九(一九二〇)年のころ、伊良原村(みやこ町)から加来松平が住みつき、当時のメンバーに教えたといわれています。その後、昭和十六(一九四一)年に上高屋(みやこ町)から田代に養子に来た永末稔が神楽を復活させ、戦後、復員した地元の人達と津野高木神社奏楽社を創立しました。炭坑の全盛期には毎年各炭坑の山の神の祭りに招かれ豪華なもてなしを受けたといいます。その後油木ダムの完成で津野地区の人口は減り地域は一変しました。それを危惧した当時の添田町長は、昭和四七(一九七二)年「郷土の芸能を大切にしよう」と励まし若い人たちに神楽を広めて、今では津野地区全域の神楽座となっています。現在は、神幸祭の五月三日に上津野高木神社・翌四日に下津野高木神社で奉納されます。
春日神社岩戸神楽(田川市宮尾)
春日神社の宮帳には、江戸時代初め頃に神楽の記述がありますが、詳細についてはよくわかっていません。古老の口伝をまとめた、「昭和八(一九三三)年 収録者・津川鹿信、同協力者津川秀雄」と記されたしおりがあり、「岩戸神楽」三十三番が記されています。明治から昭和への石炭産業盛衰の中で活動が行われ、戦後一時中断しましたが、昭和四五(一九七〇)年、有志が集まり、春日神社岩戸神楽保存会と称し、この伝統ある神楽を復活させました。古くは「くにちまつり」の前後にあたる陰暦九月二九日の夜に奉納されていました。昔は夜を徹して三十三番の演目が舞われていましたが、今は十二番にまとめられています。内容は、筑前系神楽と豊前系神楽の演目が混じるなど旧筑前国と接するこの地域ならではの特徴を持っています。
名称
1 上野神楽(福智町上野)(廃座)
2 春日神社岩戸神楽(田川市宮尾)
3 採銅所神楽(香春町採銅所)(廃座)
4 大内田神楽(赤村大内田)
5 津野神楽(添田町津野)
6 添田上神楽(添田町添田)(廃座)
7 添田下神楽(添田町添田)(廃座)