田川地方の獅子舞は、神幸祭に伴うものがほとんどです。力強くまた優雅に舞われる姿は、祭に華やかさをもたらしています。現在の分布を見ると中元寺川流域の福智町、田川市西側、川崎町、彦山川流域では、田川市東側、そして、添田町で伝承されています。
これらの獅子舞は、よく見ると三つの種類があるようです。それは、田川独自に発達したものと、筑前から伝えられたと考えられるもの、そして、英彦山の松会(まつえ)行事で舞われる修験道の獅子舞です。ひとつの地域で三系統の獅子舞が残っているのは県下でも珍しく貴重です。
まず、田川地域独自のものといわれる「五段・六調子」の起源はどこにあるのでしょうか。発祥のひとつと考えられる位登(いとう)八幡神社では、宇佐宮(宇佐神宮)から習ったといわれていますが、詳細についてはよくわかっていません。弓削田の須佐神社では、天明年間(一七八一年から一七八九年)から始まったといわれています。分布を見ると中元寺川流域の田川市弓削田から見立、位登、そして川崎町の池尻・森安・田原・太田で伝承されています。
また、野田の獅子楽(添田町)には、「ごだん」という演目がありますが、関連については不明です。舞の特徴は、演じる場を何度も並んだり廻りながら歩き締めます。注意して見ると歩き方が比較的ゆっくりですが、脚の動きが不自然であることがわかります。これは、地面を踏みつける魔祓(まはら)いの所作でしょう。いくつかの場所で廻すのは、ムラ中の魔祓いを行っていると考えられます。形式的で、祓(はら)いの要素が強い獅子舞です。
次に、田川地方で「曲獅子」(川崎町などで五段・六調子と区別するために呼ばれている名称です。)と呼ばれている獅子舞があります。旧筑前国の嘉麻郡・穂波郡より伝わったもので、福智町の稲荷神社、南木(みなぎ)菅原神社、田川市の白鳥神社(猪膝(いのひざ))の獅子楽のように綱分(つなわき)八幡神社(飯塚市)より直接教わったものと、それらを介して伝えられているものがあるようです。例えば、須佐神社(田川市岩屋)の獅子舞は南木から、上伊田西は稲荷神社から、添田町落合は、猪膝の白鳥神社の獅子舞が伝わったといわれています。また川崎町の木城(休止)、永井では、大分八幡神社(飯塚市)から習ったと言われています。特徴は、軽快な旋律で前半から後半に移るにつれてテンポが速くなります。聴いていて非常に耳に入りやすく、遠賀川流域の多くに広まった理由が分かります。これらの獅子舞はよくじゃれあいますが、これは恋愛を表すといわれています。五穀豊穣を意識したもので、舞のストーリーは、嘉穂地域の獅子舞ではお見合いから恋愛、婚姻の一連を表しているといわれたり、唐から夫婦獅子が助け合いながら日本に渡る様子を表すと云われています。
「曲獅子」では、獅子舞と共に、鮮やかな衣装に杖を持った子どもたちが円陣を組んで舞う楽打ちがあります。本場の嘉穂地域では、廻り打ちなどと呼ばれ、円陣を組んで廻りながら農作業の所作を表したり太鼓を打ったりします。これも嘉穂地域から獅子舞と共に伝えられたものです。
また、彦山の神幸祭の獅子舞は、修験道の松会で廻されていたものが今日まで続いています。大きな獅子頭で雌雄(しゆう)が対角線上に並びながら優雅に庭中を舞い、舞の中に四方を祓う動作があることから、やはり祓いを意識しているのが感じられます。舞の最後に、奉幣殿の鳥居に雌獅子が突進する三度返しがあります。
田川地域では、このほかに夏の暑い時期にお獅子廻(ししかい)と呼ばれる行事がありました。村中をお獅子が廻り家内安全・病魔退散を祈る行事ですが、この時の獅子は舞うことはなく、カツカツと口を鳴らせて魔祓いをおこないます。現在は、祭典のみで終わらせるところが多いようですが、小内田太祖神社(赤村)では、今でも地域内を廻っています。