二つの神功皇后御腰掛石(じんぐうこうごうおこしかけいし)伝説

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【関連地域】田川市 赤村

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 山浦の太祖神社はもともと戸代(戸城)山の山頂にあったとされ、戸城(戸代)山城を築城した菊池武重が麓の集落に移転鎮祭したという記録があります。それ以前から「神功皇后(じんぐうこうごう)御腰掛石」は山浦地区にあったそうですが、付近にはどのような逸話が残されているのでしょうか。

「神功皇后御腰掛石」にまつわる伝承

 山浦太祖神社にある「神功皇后御腰掛石」は、村道側の鳥居に向かって左側にあります。石というよりは岩とも言うべき大きさで、「大正八年四月田川郡教育會建立」と刻印された石碑が備え付けられています。この石は、神功皇后が朝鮮半島に軍勢を率いて赴いた後、その帰路の途中で休息を取るため腰を下ろしたことにその由来があります。この時皇后は京都郡の方へ向かって「先にも村ありや」と仰せられ、この地より先の山を「崎山」、反対側を「山浦」または「後山」と呼ばれるようになったと言い伝えられます。現在でもこれらの地名は使われています。

山浦太祖神社神功皇后御腰掛石(赤村山浦)


風治八幡宮神功皇后御腰掛石(田川市伊田)


神功皇后の足跡

 古い文献によれば神功皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇(第十四代)の后とされます。熊襲(くまそ)(九州地方の諸勢力)平定の折に急死した仲哀天皇に代わり、大和朝廷の最高権力者となりました。この時皇后は懐妊しており(後の応神天皇(おうじんてんのう))、身重のまま朝鮮半島へ出兵し、難なく半島の諸勢力を制圧したそうです。

 神功皇后は非常に長い間在位していたとされ、実在の人物かも定かではありません。一説には中国側の文献に見られる「卑弥呼」に対応する女王を、日本側の文献に創出するための伝承を捏造したのではと考える研究者もいます。この一方で実在するとすれば四世紀代(千三、四〇〇年頃前)の人物との指摘もあります。ちなみに朝鮮半島側の記録には、四世紀ごろ「倭」が海を渡り、積極的に軍を展開していたという記録が散見されます。

 当時大和王権は、大陸にある先進文物の入手に躍起で、特に金などの貴金属や鉄資源などを獲得するためには労を惜しまなかったようです。このことを裏付けるかのように、同じ時代の日本の古墳から金銀の装飾豊かな王冠や装飾品、鉄刀などが多くみられます。神功皇后も身重でありながら渡海し、お腹と腰を大きな石で挟み出産を遅らせてまで(これも伝承です。)半島で陣頭指揮するほどでした。このような理由から北部九州は、大和王権にとって地理的に重要な位置を占めることになります。それは各地に残る神功皇后の伝承からも伺えます。次に、北部九州に残る神功皇后の伝承をごく簡単に説明いたします。

北部九州に残る皇后の伝承

 図で示すように、北部九州には神功皇后にまつわる伝承が数多くあるとわかります。ここでは赤村にもゆかりのある朝鮮出兵から帰路に関する伝承を取り上げます。

 朝鮮半島より帰国した神功皇后は、応神天皇を出産します。その地は現在の糟屋郡宇美町(図の①)で、地名の由来はまさしく天皇を「生み」出したことにあります。現在も宇美八幡宮は人々の厚い信仰を集めております。その後現在の大宰府から飯塚市へと続くショウケ越え(図の②)は、生まれたばかりの応神天皇がショウケに乗せられて越えたことに地名の由来があると言われますし、飯塚市大分(だいぶ)付近(図の③)で軍隊の解散をしたため、大きく分かれた地という意味が地名となったといわれております。

神功皇后伝承地と帰路


 近隣では田川市の風治(ふうじ)八幡宮(図の④)に、神社の由来について興味深い話があります。それは神功皇后一行がこの地を訪れた時、にわかに風雨が激しくなり皇后が祈願したところ直ちに荒天が治まったということです。このことが「風治」八幡宮となったと言います。その後山浦地区(図の⑤)を経て、神功皇后一行は現在のみやこ町犀川(さいがわ)付近に到ったとあります。ここでも生立(おいたて)神社(図の⑥)の由来に神功皇后の伝承が残ります。それは神功皇后が都への途中、この付近で皇子(応神天皇)が生まれてはじめて立った事から、この地を「生立」と呼ぶようになったとのことです。

 皇后の帰途に関した伝承があるこれらの地の点と点を結ぶと、後の時代大和王権が北部九州の重要拠点に設置した屯倉(みやけ)の各地と結んだ線と似通ったところがあることに気づきます。屯倉は六世紀ごろ地方統治の拠点となり、一説には軍の駐屯地のような性格でもあったと言われます。このため屯倉の推定地付近は、主な交通路上にあたる可能性が指摘され、古くから赤村は主要な交通路の通る地域であった可能性も出てきます。また神功皇后が残した逸話も一概に事実無根とは言いにくくなります。これらの伝承から考えると、「謎の四世紀」と言われる日本の歴史に、赤村が関与していたのかもしれませんね。

(松浦幸一)