糸田町の中元寺川に架かる皆添橋(かいぞえばし)を渡り、田川市夏吉方面に抜ける道に小さな峠があります。この近くにある種田山頭火が通った医師・木村緑平宅が有名ですが、この小道にはもう一つ面白い話が残されています。
この道沿いには貴舩(きふね)神社があります。貴船神社は京都市左京区鞍馬貴船町の貴船神社が総本社で、全国に約四五〇社あると言われていますが、〝貴船〟の最古の地名は糸田町貴船に端を発するという説もあります。なお、ここの神社は〝貴船〟ではなく〝貴舩〟と書かれています。
かつて、この神社の幟を立てる石柱に「北海道組」と書かれていました。この石柱は残念ながら交通事故で破損してしまい、現在では「北海道組」の文字はみることはできません。
この〝北海道〟ですが、地元の方によると謂(いわ)れがあるようです。明治の頃、炭鉱の仕事を求めて移り住んだ人々の中に北海道からやってきた夫婦がいました。夫が坑道で採炭の仕事をしていた時に、落盤事故が起こり、目の前でたくさんの犠牲者が出ました。幸いなことに、夫は辛くも命を取り留めましたが、とてもこんな危険な仕事はできないと炭鉱を辞めたそうです。二人は故郷である北海道の郷土料理を出す店を始めたところ、これが大繁盛して連日の満員。過酷な炭鉱労働を終えた人たちも常連となり、この店がある小峠はいつしか〝北海道〟と言われるようになったといわれています。
糸田町には〝台湾〟という地名もかつては存在していました。当時は日本であった台湾(現中華民国)から仕事を求めて筑豊に出てきた人が暮らす地域の通称名ではありますが、北海道といい台湾といい興味そそられる話です。
福岡という地名も元々は備前岡山で、江戸初期黒田の殿様が元の領地を懐かしんでつけた地名と言われています。全国にはこのような地名はたくさんありますが、筑豊において〝北海道〟や〝台湾〟はやはりインパクトが強い地名です。これらも炭鉱文化の名残であり、これらの歴史を後世に伝えていくことは大切と改めて感じさせてくれます。