お浦が池ものがたり

384 ~ 384

【関連地域】田川市

 むかしむかし、将軍徳川家綱(いえつな)の延宝年間(註)のころ、うち続く干ばつに村人の苦しみは耐えきれないほどになっていました。弓削田五ヶ村では村人が知恵を出し合った結果、あたり一帯を潤すには大きなため池を掘る以外にはないと考え、村はずれの山間部での工事にかかることになりました。村人総出で力の限りに働き、完成までには三年の年月がかかりました。ようやく池が完成し、村人はみな雨を待ちました。

註 延宝年間(一六七三〜一六八一)

  人柱伝説は各地に散見されます。近隣では小倉南区呼野に、享保三(一七一八)年と伝えられる稗の粉(へいのこ)池の人柱伝説があり、「お糸の墓」が大切に祀られ、盆踊りや大泉寺での語り等が行われています。

 ぽつ。ぽつぽつ。ぽつぽつぽつ。

   ザアー。ザアーザアー。

 雨が、大雨が降ってきたのです。「あーやっと、やっと降ってくれた。よかった。よかった」手を取りあって喜びました。

 しかし、いっこうに池に水は溜まりません。

 「なしか。なしたまらんとか」

  「これは、きっと龍神様の祟りじゃ」

 

 「どうしたらよかろうか」

  「龍神の怒りを鎮めるためには人柱をたててお祈りするしかないばい」

 人柱には清純な乙女でなければならず、

 もとより進んで人柱に立とうというものがあろうはずがありませんでした。

 結局は神籤(みくじ)による外はないということで、村中の娘が両親に付き添われ、不安におののきながら庄屋の邸に集まりました。

 やがてその時刻になり、一同の前に現れた庄屋の口から意外なことばがつたえられました。

 「実は、わしの家に幼いころからひきとってわが娘同様に育ててきたこのお浦が、自分が人柱に立って村の方々の難儀を救いたいと申し出てきた。あわれと思うが、当人の切なる願いであるので、せんかたなく、ただいま承知したばかりである」と肩を落とし絞り出すような声で村人に話しました。

 「身寄りのない私を今まで本当に優しく育ててくださいました。このご恩に報いることができればと常々思っておりました。このお役目、私にできるただ一つのことに思えます。皆様とお義父様のお役に立てるのであればどうぞこのお役目を私に」

 村人たちはお浦の真心に打たれて、ただただ涙ながらにその姿をふし拝むばかりでした。

 その日の暮れ方、白無垢(しろむく)姿のお浦は、庄屋に手をひかれて池のほとりへおもむき、村人が合掌しお経を唱える中に、池の底深く掘られた穴に身を沈めていきました。

 翌日、早朝から池のほとりに集まった村人たちは眼前の光景に目をみはりました。

 これまでどれほどの雨も溜まらなかった池が、水をたたえ、しかも刻々と水かさが増していくのです。池は時が経つごとに満水となりました。村人たちは欣喜(きんき)してあつくお浦の霊を弔いました。

 それ以来、この池の水は弓削田五ヶ村の田を潤し、村人は干ばつの苦しみから救われることとなりました。

 お浦のまごころをたたえ、その冥福を祈る村人たちは、その池を「お浦が池」と名付け、お浦の名を末代まで残すこととなりました、

(中野美惠子)