昔、昔。豊前のことごとくの将が大内の軍門に下ったのち、岩石城(がんじゃくじょう)だけが、大友の有力な拠点として残されました。それだけに、岩石城が戦いの天王山となるであろうことは双方とも感じていました。
問題は時期でありました。
「岩石城の攻撃を受ける期は遠くあるまい」
大友方はそれと察すると、四万五千の兵をひきいて大分を出発、到着するやさっそく手勢を二手に分けて布陣しました。これに応じる大内勢は五万余騎。
岩石城を中心に十万の兵が向かい合いました。この日の大内の寄せ手(攻め寄せる側)は波状攻撃を繰り返しました。第一陣が疲れれば第二陣がとってかわり、第二陣が危うしとみれば第三陣と、要塞(岩石城)に挑みました。城中からは大木、大石がこれを迎えうちました。戦いは容易に勝敗がつきませんでした。
夜がきました。寄せ手は兵をおさめて明日に備えました。その中に城主(大友)の血族という者がいました。彼は一人の者と謀らい城兵の手びきをしようとしました。
「矢文にて城中と連絡をとり、当方の合図の火をまって城より切って出る旨伝えては如何(いかが)」
矢文を受けた城中では「敵なれど、二人ともわが大友の血をひく者。いつわりはよもあるまい」
大友公は半信半疑の部下を説いて、敵中の味方に信頼を寄せました。ところが二人のうち、一人がまたまた変心をおこし、この謀反を大内側に暴露しました。件(くだん)の兵は直ちに捕えられ、その場で切られてしまいました。そして、連絡しておいた城中への合図の火がたかれました。これを見た大友軍は「今こそ奇襲の時ぞ」。精鋭を選(え)りすぐり、一気に岩石山を駆けおりました。大内方では、この時を待っていました。三方より伏兵をもってとり囲み、行く手をさえぎりました。
逆に奇襲を受けた大友の城兵は「さては謀られしか」と気付いたものの、今さらとって返すこともならず、その場で凄絶(せいぜつ)な戦いがくり広げられました。しかし多勢に無勢、ただでさえ思いもかけぬ敵兵に狼狽している大友方に勝ち目のあろうはずがありませんでした。ことごとく戦場の土と消えました。
後に人びとは、この戦いを「添田の夜戦」と呼びました。現在の添田神社のあたりだそうです。添田神社は添田公園の中にあり、桜の季節には、花に酔う多くの人で賑わうそうです。