【関連地域】糸田町
享保十七(一七三二)年の梅雨は何十日も雨が降り続き、それに伴って水害も起きる長い長い梅雨でした。田畑が寸断されたばかりでなく、稲の疫病が流行し、ようやく雨が上がったかと思ったら、今度は驚くほど大量の虫が発生したのです。虫は稲の根元から葉までびっしりと食いつき、みるみるうちに増えていきました。田は一夜のうちに枯れ尽くし、収穫は全くありませんでした。
「ツバメは二番子を産み捨てにして逃げ、お盆前後の赤トンボですら一匹も見当たらなかった。」と言われています。牛馬はおろか人間も木の実や草の根をかじってかろうじて命をつないでいたのです。
当時の人々の代用食といったら、蕎麦の花、大豆の葉、菱の実、樫の実、蕨(わらび)、タニシ等でしたが、秋風が吹くころになると、それらも乏しくなっていったそうです。お寺での粥の炊き出しも始まりはしましたが焼け石に水という状況でした。
ある者は食を求めて枯野をさまよい、またある者は小倉城下を目ざしたり…。
その様子はまるで祇園のようであったといいます。ここでいう祇園という形容は華やかさではなく、当時としては想像することも思い描くこともできなかったほど多くの人々の往来をさす表現と思われます。
この年の飢饉は、近畿以西に広がっていて、九州では豊前、筑前、肥前が特にひどかったようです。田川郡だけでも餓死者は六千八百人を超え、これは当時の人口の約四割に推定されています。
享保の飢饉は最大のものといわれており、これらの餓死者の霊を慰める供養塔が各地に残されています。鼠ヶ池にある千人塚もそのなかの一つです。
(森本弘行)